週刊モモ

週刊とかあまりにも無理だった

最寄りのスーパーは大きな坂道

 

 

を自転車で頑張って登らないとたどり着けないけど、そんな土地でわたしは一人暮らしを始めた。

正確にはひとりと一匹暮らし。猫のモモと一緒に住んでいる。

東京に戻ってきてから、実家にずっとすんでいたけれど、なんとなくずっと居心地の悪さを感じていた。親はなにもわるくないが、親とずっと一緒にいることは疲れてしまうときがある。適度な距離感を持っていたかった。一人になりたかった。一人でひたすらに好きなことをしたかった。ただ、一人がさみしいことはわかっているのでモモがいてくれてよかった。

モモは甘えんぼうではあると思うが、適度にわたしと距離をとってくれるところがすきだった。まあ距離を取られすぎて時々わたしの話を聞いてくれないのがほんのすこしだけかなしいと思うこともあるが。われ関せず、みたいな顔が得意な猫らしい猫ではある。

 

 

 

 

一人暮らしをしたら、自分のすきな本にたくさん囲まれてすごしたいと思っていた。本が溜まりに溜まって、腐ってしまうんじゃないかというほどに。なので、とりあえず実家にある自分の本だといってもいいであろうものたちをほぼ全部持ってきた。ちなみに漫画も。おおきなポケット(略しておおポケ)からMONKEYから文藝(文芸誌のね)からPOPEYEから椎名誠から米澤穂信から北杜夫から松本大洋から三浦綾子から宮崎駿からいくえみ綾からさくらももこから村上春樹村上龍ケストナーリンドグレーン、ミヒャエルエンデそのたもろもろ、まで。

ほんとにとりあえず感がすごかったが、それらをかき集めて(あれ、わたしこんなの持ってたっけ?とか、デスノートの3巻が二冊ある!とかハリーポッターはさすがにお兄ちゃんのものだからダメか?とか思ったりした)、友だちに手伝ってもらいながら、実家の軽を運転して新居まで何回も往復したのだった。

 

わたしはわりと読みたいなと思ったら評価・レビューとか関係なく躊躇なく本を買う。これからも蔵書がどんどん増えていくと思ったので、増設できる本棚をつくろう!と思った。あととにかく背が低めの本棚が好みだったのでなんかいい本棚ないかな、とも思っていた。

youtubeで他人のルームツアーの動画を見ていたら、軽量ブロックに、ホームセンターでカットしてもらった板をのせて本棚にしているひとがいたので、わたしもそれにしようと思ってホームセンターにも通ってみた。

軽量ブロックは安くて、重かった。途中で軽量ブロックを大量に買うのが嫌になったりしたが、なんとか本棚が完成した。

 

 

 

 

 

 

増設できる本棚が欲しかったのに、スペース的にこれ以上本を増やせないような本棚になってしまったが、とても良い本棚ができたと思う。でもぜったいにこれからも本を増やしていきたい、だって腐るほどって結構レベルたかくない?

正直写真で見るより生で見たほうが5倍くらいい良い。わたしの友だちはみんなうちに遊びに来てほしいと思う。なんか、この本棚を見ていると自己肯定感が上がったりするなと思って、このブログを書こうという気になった。

わたしは自己肯定がとにかく苦手、自分のことを卑下するのが得意な人間だけど、最近何人かの人にたまたま、蔵書のセンスがいいとか、本を読むところいいところって言ってもらえる機会があったので、なんかそういうことなら、そうなのかな…と少し頑張って思ってみたりする。(でもそれってわたしがすごいんじゃなくて、本自体がすごいんじゃないかな!?と素直に思ったりもするけど)自分のいいところを思ってみることって大事なんだよなあと思う。よっこらしょと重い腰をあげて、読書がつくりあげてくれた、自分のいいところを考えてみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしはものごころついたときから本を読むのが好きだったと思う。そしていままでずっとつづけてきたことでもある。学生時代は図書館にいるのが大好きだったし、読書感想文なんかもひそかに張り切るタイプだった。

とはいえ、年間100冊とかは読まないし、ときどき訪れるなんでか手が進まない、読めない期間には全然読む気になれない。ほんとに普通のひとよりもちょびっとだけ本を読むことが多いくらいだ。

読みたいときに本をまとめてがばっと買って(それは中古でも新刊でもよくて)密度濃くとことん読むのが好きだった。全体として読む冊数は少なくても、まあ立派な趣味だと思う。

 

それはおとうさんの影響がおおきかった。おとうさんは理系で技術職?(多分)の人間だったのに、とにかくたくさん本をもっていて、おとうさんのへやは地震がきたら本につぶされて死んでしまうのではないだろうかと感じるほどに背の高い本棚に本が山積みになっていた。純文学やミステリ、新書、芸術、古典、洋書、あらゆるジャンルのものがあった。あと岩波書店の「世界」というよくわからない難しそうな月刊誌もずっと定期購読している(ときどき風呂場に置き忘れてる、てか風呂でも読んでんだ…)。おとうさんはかなりの読書家なので、あらゆることを知っていて、わたしがいままで出会った人間で一番賢く、教養のある人間だと思うくらい、それはすごかった。

 

読書によって自分自身のいろんな引き出しが増えることを教えてくれたのは、まぎれもなくおとうさんだった。

 

おとうさんは、よく読み終わった本をわたしにくれた。

わたしはおとうさんみたいに難しい本は読めないので、わたしが好きそうな類の本をくれていたのだろうけど、おとうさんからもらった本はほとんど、お気に入りの本になった。

こんな本が読みたいんだけど…というとその望みに関連する本も貸してくれた(宗教の本が読みたい、とか素敵な詩が読みたいとか)。蔵書の力がすごい。

大学生のときは、ときどき送られてくる仕送りの段ボールの中にお父さんが絶対に一冊は本を入れてくれていた。送られてきた本もやっぱり見事にわたしの好きな話ばかりだった。

 

 

 

 

おとうさんは最近なに読んでるの?とこのあいだきいてみた。

最近は芥川全集を読み直してる。あと直木三十五南国太平記っていうチャンバラ小説だな。とのこと。やはり芥川・直木は原点にして頂点(?)なのか?

 

 

 

 

 

 

自分には救われる読み物というものがある。その出会いにすがりたいから本を読み続けているような気がする。

自分には知らないことがたくさんあって、でもそれらを抱えきれるほど自分は頭がよくない。いろんなことに立ち向かうことができない自分をもどかしく感じる。そんな気持ちはこれからわたしはなにをするべきなんだ?と自分に問いかけてくる。

それはそれで嫌なことではなくて、何かを行おうとする原動力になって、自分をその気にさせてくれるものでもあるけど、自分の心と頭にエネルギーが足りないように感じてしまうときがある。そういうときは自分のことがすっごくいやになって、逃げたくなる。なにからかわよくわからないけど、たぶん現実からなのかなあ。

 

そういうときに本を読む。

とにかく読むと、偶々出会うものに救われたりすると、自分はそれに感動せざるを得ない。

自分の中のもやもやした気持ちはだれにも理解されないと考えてしまうことが少しあるが、その登場人物がすこしだけでも自分に似てて、此の人のように素晴らしく生きられるのではないかと希望が湧いてきたり、この本の中に自分がいたなら、きっと正しい言葉を自分にかけてくれるのではなかろうか、と思ったりしてしまう。

いろんなことを難しく考えすぎてしまうわたしのこころのなかは、かなり混雑しているのに、自分を助けてくれる言葉や状況はとても普通で単純であったりする。でもそれらの表現が自分のなかの隙間にピッタリとはまってしまう、それが自分にとっての救われる読み物なのかな、と思う。

 

そんな文章を読むと自然と涙がでてきて、この涙はきっとあふれ出す気持ちが言葉にならなくて、でも何かを発したかった時にでてきてしまうものなのではないのかな、なんてことを思う。

 

 

 

あれ、やっぱ本を読むわたしが良いんじゃなくて、本がすごいんだなあ。

でも、なるべくいろんなことを吸収して、わたしの中の引き出しをたっくさん増やして、大切なひとが悩んでいるときとかに、その人が救われるような言葉をかけてあげられる、そんな人間でありたいとおもうよ。そういうところがわたしの良いところってことで、いいかな?