週刊モモ

週刊とかあまりにも無理だった

氷見に行ってきたよ

 

旅行はどちらかというと結構苦手。旅行だけじゃなくて、イレギュラーなことが基本的には苦手なのだ。とたんに不安になってしまうし、不安が行動にそのまま表れて失敗した(涙)と思ってしまうことが多い。だから旅行はあんまり行かない方だと思う。

いつも同じ生活を送っていた方が自分のだめなところを隠せるからだと思う。わたしは生活の中では実はかなりできないことが多い、けど「慣れていること」をすることによっていろいろなことを隠しながら生きているという自覚がある。失敗なんて結局してしまうのに、失敗しているようなところをひとに見られることがとんでもなく怖いのだ。相手はそんなこと気にしていない、とわかっていても、自分を必死に隠すことをやめることがずっとできない。

 

 

「慣れていること」範囲外のことをすると、自分という存在がいたから悪い方向にいったのだみたいなことを思ってしまう。

だから旅行はめちゃくちゃ人に気を使ってしまう。自分が旅のプランに口を出せば、自分の提案がうまくいかないのではないかとハラハラするし、それがつまらなかったら完全に自分のせいだと思う。逆に何も口出しをしなければ何もしない非協力的なひとだと思われることが嫌だとも思う。そういうことで、自分が他人にどう映るかばかり考えてしまうので旅のことを考えるのは苦しくなってしまうことがよくある。そんなことを思うけど、自分以外の他人が旅行のプランに口出ししようが、非協力的だろうが、そういうことは全然気にしない、ただただ、自分のことだけなのだ、結局わたしは。

 

しかし旅が嫌いかと言われればそんなことはないと思う。

温泉や自然が好きだし、知らない町をたくさん歩くことも大好き。

だからわたしは、旅をするときはすこしだけでも自分の”そのままの生活”を持ち歩く。いつものようにラジオを聞いて、毎週着てるTシャツとジーンズ、毎日履いてる靴で、ほとんどすっぴんで、荷物も軽くして、そしてなによりも、ふらっと外にでるように、たったひとりで旅に出る。

 

 

 

 

氷見に行ってきた。

理由はいろいろあって、まずは北陸に行ってお金を使いたいとぼんやりだけど思ったから。

実際に現地に行ってお金をつかうより、その分を募金したほうがいいのだろうかとかいろいろ考えたけれど、やっぱりいま、行こう、と直感で思った。大きな被害があった地震は今までのわたしの記憶の中でも何回もあったけど、その中でわたしは大人になって、自分で稼いだ自分の好きなように使えるお金が、今は少ないけどある。もちろんなにが正しい行為か、ということはわたしには完全にはわからない。

 

去年、久しぶりにあった人に「元気そうでよかった」と言われたときに、なんだか胸がざわざわしたのを思い出した。わたしが結構つらい時期を過ごしていたことはなんとなく知っていたひとだと思うけど、別にわたしは自分のことを元気じゃないと思ってたし、なんだか勝手にいろいろと終わらせて「元気そうに見えて」安心されていることに違和感を持ってしまった。だからわたしは、わたしは何も知らないままに、後片付けが済んだように見える段階で「元気そうでよかった」とは何かや誰かに対して言いたくないと思った。

 

もちろんこれは自分のエゴで、その人に違和感をもってしまうような自分にも嫌気がさすところがある。考えは人それぞれあるとおもうから、それぞれが好きなようにしていいと思う。その範囲のなかでわたしの場合は、自分自身がなるべく誰かを傷つけたくないという感情と、自分勝手でもわたしの中でなにか納得できる材料をすこしでも増やしたいと思ったのだ。でも、多分後者が強いんだろうな、と思う。いまもまだ、多分毎日落ち込んでいる時間の方が全然多いし、結局自分のためなのかもしれない。

 

被害が大きく、観光がまだできない場所は行くべきではないので、金沢以北かつ、観光可能である場所にしようと思った時、「富山もしんどい」というツイートをたまたま見かけ、じゃあ富山にしようと思った。

あとはなにより、わたしはお刺身ではぶりがほんとうに好きなのだ。

じゃあ、氷見だ!氷見のぶりを食べに行こう!と自分のなかでしっくり来た瞬間にわたしは夜行バスを調べた。東京からの往復で一万円以下、これならいける。わたしはほんとうにただの小さな会社の一般社員なので、お金に余裕があるとは別に言えない。新幹線でお金をつかってしまって、現地で使うお金がなくなってしまったら本末転倒なので、わたしは学生のときぶりに、夜行バスの予約をした。

 

 

 

 

夜行バスのバスターミナルは、なんだかいつも妙な雰囲気があるなあと思う。

寝るだけだからか、みんながなんだか気が抜けているようなきがする。トイレに行くとコンタクトをはずしている女の子がいて、外の待合所では、地べたに座り込んでキャリーケースをあけて荷物の整理をしている女の子がいる。それにしても、夜行バスを使う人って、若い女の子が圧倒的に多い気がする。

 

先月友達から充電式のホットアイピローをプレゼントでもらった。ボタンを押したら目のまわりがじわじわあったかくなって、30分で自動で消えるやつ。

わたしは悲しくも睡眠が苦手なんだけど、これは寝る前に使うとリラックスできるし、満タンに充電していれば二回目もボタンを押せば使えるので、夜中に起きてしまってもまた目があっためられる、めちゃくちゃいい。マジで毎日使っている。ときどき充電を忘れると寝る前に絶望してしまう。

「ゆっきゅんがガチで寝れるって言ってたから買ったよ!たまにはひとの話も聞くもんだな!」とその友達は言っていた。ちょうどそのときわたしはゆっきゅんの「日帰りで」をめちゃくちゃ聞いていた。「日帰りで」はホンマ良曲。

わたしが寝るの苦手なの知っててくれて買ってくれたんだろうな、ありがと!そして夜行バスのいいおともになったよ。

 

 

 

まだ暗い時間にバスは高岡について、高岡から氷見線にのって、氷見に行った。

海側の席に座って、少しずつ明るくなる風景を感じて、海の表面の揺らぎをみた。少しだけ波が立っていた。つめたい風が吹いていることが目でわかる。

当たり前だけれど、移動って簡単にできてしまうなあと思う。飛行機にのったり、電車や新幹線にのったりするといつも思うけど、ひとつずつ乗り継いでいけば本当にどこにでもいけてしまうなあ。自分の意思で選んで、足を動かしてきているはずなのだが、googlemapをひらくと、東京ではない場所が、青い丸で光って動いていることがとても不思議に思えてしまう。でも逆に言えば、googlemapを見ることでしかわたしはいままさに「ここ」にいることが信じられない。

けれどもちろんこれはとても現実であり、わたしは氷見駅に降り立っていた。

 

 

駅から15分くらい歩いたところにある漁港のそばの食堂に行った。

多分7:30くらいについたと思うんだけど、その時間でも満席で、待たないと入れなかった。人気なんだなあ。車で来ているひとが結構多かった。

わたしは外のベンチで文庫本を読みながら、漁港の匂いと、漁港ではたらく人たちの声や、車を運転する音、魚がたくさん入ったかごを運ぶ音を聞いて順番を待った。

 

外はめちゃくちゃ寒くて、寒いなあと思いながらカイロで手をさすっていたら、たまたまわたしの前を通ったおじさんに、お店いっぱいなの?寒くないか?中にストーブあるからはいんな!と言われた。

その漁港の事務所みたいな場所は、ドアに堂々と「関係者以外立ち入り禁止!」と書かれていたから、え…いいのかな…と思いながら入っていった。部屋の真ん中に大きなストーブがあって、みんながそれに手をかざしていた。

大学生のとき海のスポーツしてたからすごくよくわかるのだけれど、寒い時の海って本当に本当に寒いから、ここで毎日働いているひとはすごいなあと感心してしまった。今日よりも寒い日ももちろんあるんだろうなあ。

そうしていたら別のおじさんに、ここは立ち入り禁止だよ!と怒られた。いや、そうだよね!やっぱそうですよね!と思ってごめんなさい…と言って立ち去った。

わたしを招いたおじさんが、ごめんごめん、俺が呼んだんだ、と謝っていた。ごめんね、わたしも一回疑えばよかったよ、だって普通にデカデカと張り紙してあったもん。

でもちょっとおもしろかった。だって毎日ここきっとたくさん人来てるだろうに、外で待っているひとだっていつもいるだろうに、たまたまわたしを招いて、わたしが怒られたという偶然性に、すこし笑ってしまった。

 

 

食堂は繁盛していて、わたしが中に入ったあとも次々に食べ終わったひとが出ていって、新しいお客さんが入ってきた。猫の顔をした配膳ロボットが2台くらいいて、久石譲summerのメロディを流しながら定食を運んでいた。そのせいで頭の中がその曲しか流れなくなってしまったが、そのままごはんを食べた。

そこで食べたぶり丼はほんとうにおいしくて、一枚一枚の刺身がほんとうに分厚くて、わたしはごはんも大盛にしたのだけれど、すぐに完食してしまった。きちんとご飯をたべると、いつもすがすがしい気持ちになれる。

 

 

店を出てからはラジオを聴きながら海辺をあるいて、小さな展望台に上ったりした。氷見は、海もあって、山もあるのが、めちゃくちゃいいなあ。

先週は多分全国的に天気があまりよくなくて、三日前くらいの予報ではもしかしたら雨が降るかもと思ったけど、当日は雲の隙間からだけど太陽が見えた。

氷見の道の駅に行って、実家とともだちと自分に、たくさんのおみやげを買った。干物とか、日本酒とか、お菓子とか。

 

 

一時間くらいかけて歩いて、少し山の方のお湯やに行った。ひとりだと平気でこういうことをしてしまう。バスもあったけど、本数も少ないし携帯で時間を検索して何時のに乗ろうとか考えるのもめんどくさかった。

 

海辺の道の駅付近は結構ひとがいたけど、すこし陸側の方にはいると、外にいるのはわたしひとりだけなのかも、と思うくらいの静かな町がそこにはあった。

 

家が連なっている道を歩くと、それぞれの家には三種類の張り紙が貼ってあった。緑の「調査済」、黄色の「要注意」、そして赤の「危険」。

赤の「危険」が貼られている家は、もうほんとにみるからに、怖いくらい崩れてしまっている家もあった。そしてふと歩いている足元に目をやると、道路が平気にひび割れている。頭の上のスピーカーではり災証明書に関する放送が流れていた。

繁盛していた漁港の食堂や、道の駅とのギャップがすごく、わたしはいつもよりすこしだけ足の裏に力を入れて歩いて、その景色をちゃんと見た。

 

 

行った小さな温泉はすごくすいていた。脱衣所のロッカーのカギはちゃんとしまっているのか、ちゃんと開けられるのかわからないくらいなんだかガタガタと不安定で、ここでひとりですっぽんぽんの状態で鍵あかなくなって荷物取れなくなってしまったらどうしよう…とか一瞬考えたけど、まあいいやと風呂に入った。

おばあちゃんたちが二人いたけど、そのひとたちはずっと内湯にいたから、露天風呂はほとんど貸し切りだった。気持ちよくて、夜行バスでかたまった身体や、たくさん歩いた足がだんだん軽くなっていくような気すらした。

 

 

その休まったはずの足で、また一時間くらい歩く。なんかこうやって書くと、ほんとにこう現代で求められているようなタイパとかコスパとか考えることをまったく無視しているような旅の仕方をしているなあと思う。そういえば脱衣所のロッカーはちゃんと鍵が開いた。よかった。

 

ときどき疲れたら海辺に座って休みつつ、カメラを持って行ったので写真を撮りながら道を進んだ。友達と遊んだり、人と旅行にいったりしても、わたしはあまり写真を撮る方じゃないと思う。というか自分の顔が写る写真が苦手なのだ。自分の外見をわたしが見るのが苦手だから。

一人で、景色の写真ばかりをとる。そらをぐるぐると自由に飛んでいた鳥とか、きらきらと光っている水路とか、もうここにはだれもいないのかもしれないと思った一本道とか。

途中で氷見牛のコロッケを食べたり、また足湯につかったりした。眠すぎてすこしだけだけど公園で昼寝もした。子どもたちがワーッと公園に来る声で起きた。

 

 

夕方くらいになんとなく歩いて入ってみようかなとおもった喫茶店ぽいところのドアを開けてみた。外に看板がでていたのに、中にはいると普通のおうちみたいなところで、奥の小上がりの和室みたいなところでこどもがふたり、男の子と女の子が遊んでいた。客が来たということに全く気が付いていないみたいに、もしくは気が付いているけどそんなこと当たり前だからどうでもいいというふうに、各々が遊んでいた。

 

カウンターの席に座らせてもらって、コーヒーとチーズケーキのセットを頼む。コーヒーの豆の種類がたくさんあった。ブレンド3種類くらい、スペシャリティコーヒーも5種類くらいあった気がする。わたしは深煎りのマンデリンにした。

コーヒーを頼んで、店主の女性が丁寧にハンドドリップでコーヒーを入れてくれる。なんだか少し緊張していたけど、コーヒーの暖かくていい匂いがしたら、少し安心した。

コーヒーを淹れたり、ケーキの準備をしてくれている間にも近所の人が来て、最近の調子はどうだとか、米は必要か?とか、あんたんちの田んぼの被害はどうだったかとか、あそこの地面割れてて危ないから気を付けなよ、とかそういう話をしていた。

 

 

そのうち子どもが店主の女性を呼ぶ、忘れちゃったけどあだ名みたいな呼び名だった。どうやらその店主のかたの子どもではないらしい。コーヒーとケーキをわたしに出したあとに、店主は子どものところに行く。男の子のほうはレゴをやっていたらしくて「なんでわたしがこんなにレゴに命かけなきゃなんないのよ」とそのひとは子どもに向かって言っていた。命をかける、という表現がおもしろくて、笑ってしまった。わたしは邪魔しないようにコーヒーを飲みながら静かに、また文庫本を開いて読んだ。少し経ったあとで子どもの親のような人が迎えに来て、子どもたちは去って行ってしまった。

 

 

店主のひとがカウンターの前まで戻ってきてわたしに話しかけた。

「地元のひと?」

「いえ、東京から来ました。」

「そうかい、氷見へようこそ」

色々なことを聞かれて、一人で来たこと、夜行バスで来た事、朝からぶりたべて温泉に入ったことなどを話した。一人旅いいね~!ぶりのあとのマンデリンは正解だよ!と言われた。そうなんだ笑、ならよかった。

すると座敷の奥からおばあちゃんが子供たちが遊びつくした部屋を見ながら「ばやくそうろうにしてもて…」と言いながら出てきた。

「ばやくそうろうってわかる?」と店主の方に言われた。どうやら氷見弁でごちゃごちゃになってる、散らかっている、という意味らしい。

おばあちゃんも含めて三人で話してて、そしたらまた別の近所のひとがきて、そのひとと話してて、地域のひとたちに愛されてるお店なんだな、きっと。

 

コーヒーがもう少しでなくなるころに、この店はあまり被害がなかった、という話とか、でも少し向こうに行くともう全部建て直さないといけない家もある、どうしても自分の店をたたなまいといけない人たちがいる、斜めになったような家に住み続けないといけない高齢者がいる、とか被災についていろいろ話してくれた。

自分で選んできたのに、突然わたしは、ここにいていいのだろうかと不安になった。だってわかったようなことは絶対に言えないし、東京から来たこんな女のことをどう思うんだろう、って思ったけど、話をしてくれたので、わたしはせめてこころから、真剣に話を聞こうと思った。

 

帰り際に、お会計をしたら「これ帰りのバスで食べな!」とちいさなお菓子をいくつかジップロックに入れて持たせてくれた。

ここまできて、わたしが受け取る側でいいのだろうか、と思ったけど、人のやさしさというのはどういう状況でもうれしくてありがたい。お礼を言って店を出た。

コーヒーもケーキもめちゃくちゃおいしかったな。

 

 

 

わたしは好きな本とかは結構何回も読み直すんだけど、『断片的なものの社会学』を最近また読み直して(また読んでんの…?という感じだ、しかし本当にいい本なのでみんなに読んでほしいと思ったりする)あとがきの言葉のことを振り返った。

 

 

いま、世界から、どんどん寛容さや多様性が失われています。私たちの社会も、ますます排他的に、狭量に、息苦しいものになっています

私たちは、無理強いされたわずかな選択肢から何かを選んだというだけで、自分でそれを選んだのだから自分で責任を取りなさい、と言われます。これはとてもしんどい社会だと思います。

不思議なことに、この社会では、ひとを尊重するということと、ひとと距離を置くということが、一緒になっています。だれか他のひとを大切にしようと思ったときに、私たちはまず何をするかというと、そっとしておく、ほっておく、距離を取る、ということをしてしまいます。

でもたしかに一方で、ひとを安易に理解しようとすることは、ひとのなかに土足で踏み込むようなことでもあります。

そもそも、私たちは本来的にとても孤独な存在です。言葉にすると当たり前すぎるのですが、それでも私にとっては小さいころからの大きな謎なのですが、私たちは、これだけ多くのひとに囲まれて暮らしているのに、脳の中では誰もがひとりきりなのです。

ひとつは、私たちは生まれつきとても孤独だということ。もうひとつは、だからこそもうすこし面と向かって話をしてもよいのではないか、ということ。

 

わたしは今日も安全な場所で、カフェのカウンターの席で、30%オフのクーポンをつかって頼んだチャイをのみながらこの文章を書いている。右にはラテをもちながら自撮りをしている女の子がいて、うしろには小さな男の子に読み聞かせをしているおかあさんがいて、左隣りにはパソコンをかちかちしている男性がいる。

 

いつ恐ろしいことが起こるか、よくわからないような世界で生きていることが、不思議だなあと思う。

きっといつか何かを失うのだろうという前提の世界、そしてその悲しみは誰もが必ずしも出会うことである。でも、大きさもタイミングも平等に訪れるものでもないのだろう。

 

 

なんか本当に、「あなたがそれを選んだのなら、あなたが胸を張って生きないといけないよ」みたいな社会だな思ってしまう。「あなたの受け取り方の問題だよ」とか「あなた自身の問題だよ」みたいな。

 

わたしは誰かの話を聞こうと思う。「普通」や「世のなか一般」というよくわからな基準に当てはめるのではなく、その人が何に苦しんだり困っていたり、どういう背景があって、だからどういう感情になっているのか、みたいなことを、待ちながらできる限りゆっくり聞きたいなと思う。

でもわたしもきっと完璧にはできなくて、今も自分の周りのひとのことで上手に理解できなかったり、イライラしてしまったり、自分のものさしで話を聞いてしまって、結果的に謝ることもしょっちゅうある、難しいし、苦しいなとも思う。自分本位になってしまうことばかりだ。

 

氷見に行って、すこしだけどわかったことは、観光はできるけど、住めないもしくは住むべきではない家も全然あること、ニュースをみてもわかるように当たり前だけどここより北の半島はもっとそれが多いのだろうということ。あと、夜と朝はとても寒かったということ。この震災から二か月間は、今よりきっともっと、寒かったことがあったんだろうなということ。

 

 

 

 

 

 

それにしても、ひろい海を見て、わたしはやっぱり海が好きだなと思った。

恐ろしくて、大きくて、うつくしくて、気持ちがいい。いろいろ自分がうつくしいな、いいな、と思った風景を写真にとったからのせます。いっぱい取ったんだけど、写真へたなので現像してみたら結構失敗してた。

 

 

海は人に所有されていない、少なくとも土地のようには。わたしは地中海を愛しているけれど、それは北海を愛したり、オホーツク海を愛したりするのとまったく同じで、ちょうどいま目のまえにあるこの海を愛しているにすぎない。そこにはほかとの優劣がなく、また起源も誇らない。それが海であるというだけで愛するに足りる——これが海の良いところだ。

『いつかたこぶねになる日』小津夜景

 

 

うつくしいものの話をしよう。いつからだろう。ふと気がつくと、うつくしいということばを、ためらわずに口にすることを、誰もしなくなった。そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。うつくしいものをうつくしいと言おう。

『世界はうつくしいと』長田弘

 

朝の氷見線車内からの海の写真、一番気に入っているかもしれない

 

 

 

 

 

 

 

おいしかった

 

 

 

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また行きたい。北陸の別のところも。