週刊モモ

週刊とかあまりにも無理だった

これは水です

 

今日は太陽があつくて、強くて、まぶしい。いそいでカーテンを閉める。カーテンの輪郭を、カーテンの陰で感じる。隙間からもれた日差しが、まっすぐな線で、光と影を分けている。実家の庭の緑の合間にはっていた、蜘蛛の巣が流れ星みたいに一瞬光る。首振りの扇風機は、ときに何もない場所にむかって風を放つ。iPhoneは、また温度が下がったら充電をはじめるらしい。ねこの飲む水の器にさっき入れたはずの氷はもう溶けていた。

 

ねこひらく、を夏の季語として俳句をつくっていた本のことを思い出す。うちのねこは冬でも伸びて身体をひらいて腹をみせているような気もするが、ねこひらく暑い日だ。

(旧暦では、秋になってしまうが)今年ももう七月になっていた。

季節が変わったなと思うときは、たいてい喉の奥がピリピリしていく感覚がある。空気が変わるからだろうか。

 

 

 

あたりまえのように時間がずっと経っている。時間は本当に止まらない。ちょっと待ってほしい、お願いだから、と思っても全然止まってくれなかった。

 

 

 

 

先日いろいろあって元彼と二人でドームで野球観戦に行った。

野球をみるのは案外嫌いではない。元彼のそのひとのようにとくに応援している球団があったりするわけではないが。多分わたしはルールも完全にわかっているわけではない。

能町みねこが前に久保みねヒャダで、「サッカーはタイパ悪すぎ、90分もみて全然点はいんないから」的なことを言っていて、まあたしかにわかると思った。(サッカーファンの方ごめんなさい)。わたしは極論を言えばバスケットボールくらいバカスカ点が入ってほしい。まあ野球も全然点はいらないこともあるか、まあ、なんでだろう。野球観戦はわりと楽しいイベントではある。元彼に感謝…。

 

 

てか死にたいときに元彼に会うのは良くない。前も別の人でそんな経験があった。

このひとはもう、わたしに踏み込んでこないし、踏み込めないんだと思うし、そうさせたのはわたしなんだと再認識するので、さらに死にたくなるからだ。

4回裏ころで急にすべてを悟って死にたくなり、ヤバイ顔をしていたら彼にどうしたと少し心配され、わたしはどこまでも頭が終わっている人間だと自覚した。

 

 

こんなことをかいているが恋愛経験は多くない。わたしはモテないし、かわいくないし、ネガティブだし、愛想もないし、おもしろくないし、センスもないし、人見知りで基本ビクビクしてるし、しゃべるのがうまくないし、人を傷つけてしまわないかいつも不安なのに、自分のことばかり考えて人に期待をしてしまうような傲慢なやつだし、まあ全体的に魅力がないということになる。恋愛というかそもそも人付き合いが年々苦手になっていて、本当に人とお付き合いするのがわりとマジで怖くなっているが、でも恋愛しようとしている自分もおそらくどこかにいて、対男性で嫌な経験をして泣いてしまったことがあって男性を年々苦手になっているのに、恋愛対象が男性な自分もなんか…なあと思う。

でもマッチングアプリを継続的にやっている友達のことをマッチング狂いと言って笑いを含ませていたあの男の子たちはなんていじわるなんだろうと思った、がその人に向かってそのことを口に出しては言えない。これはわたしが勝手におもっているだけで、その子は気にしていないかもしれない。これはひとりよがりの勝手な正義感で、自分だったらそんなことは言われたくないなという気持ちなだけだからな気がしてしまうからだ。

そのひとたちも、そんなつもりでは言っていなくて、わたしが勝手にあやまった解釈をしてひとりで考えているだけなのだろう。そんなことばっかり考えているから、わたしと話すときにきっとひとは気を使うのだろうなと思うし、だからわたしはダメなんだろうなと思う。ジョークが通じないつまらない人間、みたいな。きちんと流しているひとたちのほうが、人といい関係性を築けているんだろうな、とそんな風に思えてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

「これは水です。」というDavid Foster Wallaceの有名なスピーチがあるが、わたしはこれを数年前に初めて読んだときから、彼の話したいことのありとあらゆることがわかったような気がしてしまい、助けられたような、つらいような、気がした。

 

j.ktamura.com

 

このスピーチと、このスピーチをした本人がその数年後に自殺してしまったことををセットでいつも考える。そうすると、頭が痛くなり、自分の心臓の位置と形がくっきりとわかりはじめ、親指の爪を人差し指のはらにつよくたてたり、唇の内側を噛むようになる。

 

 

 

わたしたちは、何かを信じているという前提があり、何かを全く信じていない、という傲慢さに気が付いていないことがあるのだ。

「自動的に正しいと信じてきたこと」つまりそれは先天的に自己中心的なデフォルト設定を持っている、ということ。わたしはそれが痛いくらいわかっているはずなのに、そのデフォルト設定から全然抜け出せていない感覚があるから苦しいのだ、と思う。

「自分の頭で考えられること」はとてつもなく大切なことだとはっきりわかっていて、それをもっと細かく考えていったときに、その考えられた先に答えを出して、その答えを信念として、強く生きていくことができないのが、わたしのような人間。

「これは水です」という意識がそもそもないひともいるとは思うが、自分の頭で考え取捨選択し、自分の経験から様々なことを考えてもなお「これは水です」とはっきり言えることが、できないひともまた、生きていくことがつらいことになってしまう、ような気がしている。「考える対象を選択」しているのに、苦しく、自分が保てないこと、そして毎日を乗り越えられない気がしてしまうこと、それは自分の頭に問題があるのではないか、と、思ってしまうこと。

 

「考える対象を選択」できていないひとで、案外幸せそうに生きている人もいるということに、気が付いてしまったりすること。

デフォルト設定でいきることをよしとしている現代社会で、それを疑うことなく、生きているひとたちがいることが目に見えてわかったりしてしまうこと。

 

 

 

 

 

 

これは、ただ相手の立場のことを想像しましょうね、という簡単な話ではないと、わたしはどうしてもそう思えてしまうのだ。

考えに考えてしまうと、自分の自意識の強さに、どうしても嫌気がさす人間の、すこしでも希望につながりたいと、これで希望につながらないはずはないと、思って話しているような文章である気がする。

 

わたしだってはやくこの自意識の海から上がりたいが、みんながさらっと考え終わって(もしくは考えずに)、それかいったん疲れたから、とかいうような理由で、陸に上がって水を飲んだり、シャワーを浴びて着替えていたりするうちに、わたしはまだこの海につかり、海のことを考えている。野球観戦の場所でも、自分のことを考えているくらいなのだ。どう考えてもおかしい。

 

 

そんなことばっかりしていると、様々なことを考えているはずなのに、自分のなかの「最悪な主」を殺してしまいたくなるのだ。幸せになれない気持ちになる。

「あなたのように考えることも悪くはないよ、と陸に上がった人間に軽く言われると、じゃあはやくこっちと変わってよ、こっちに浮き輪を投げてよ、わたしを陸にあげてみてよと思ってしまう自分がいることに、辟易している。

一生懸命生きてるからすごい、たくさん考えていて人間らしいところがすごい、と言われるとお前らは一生懸命生きていないのか、なのになんでそんな、楽しそうなんだ、とうらやましくなり見下されているきがしてはやく死にたくなる。

こっちは一生懸命息継ぎしないと、生きていけない海の中で、生きていくしかないんだよ、と思って泣いてしまう。つまりは自分が最悪なんだ、と思う。

わたしを見下しているなんて、そんなわけなくて、わたしが卑屈すぎてそう思ってしまうだけの、またわたしの自分中心の考えで、自分がどんどん沖に流されていくのを感じる。

 

 

 

 

急激に自分の存在が気持ち悪くなる、意思をもって言葉を放つ個体、飯を食う、排せつをする、物事を考える。27年生きてきたこの身体も、外側の見えることろだけしか知らない、意味の分からない肉の塊。

手足を意図的に動かす、瞬きをする、つばを飲み込む、自分の身体のかたちを認識する。横になって、自分の肌と肌があたるところがあつくなる。

心臓の位置と形がわかるのは、わたしが自分の手で心臓をつかんでいるからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは水です。

これは、みずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は夕方にならないと何もうごけない日だった。しかし昨日病院の帰りにあめがふって、自転車を置いてきたので、あるいて取りに行く。

 

みちをひとりで歩く。

たちどまり、考えているあいだに本来の目的と違うことろに考えが行く。

歩道に面したマンションの、共用のゴミ箱の上に食べかけのカレー味のカップヌードルが刺さった状態でおいてある。

その先の一軒家の塀に、アニメのキャラクターのキーホルダーがついた誰かの落とし物のカギがのっかっている。

その先の家の庭に咲いている紫陽花は、もうほとんど紫の部分がなくて、緑色の葉っぱみたいな色にかわっている。

そのまた先の、家ではあさがおがきれいに咲いていて、添え木のようなものにまきついたつるが上に向かって伸びている。

 

そういう目にはいった、変化しているもの、変化の結果であるものをわたしはひとつずつ見てしまって、自分で何かを考えている間に時間がすぎる。

みんなは結婚をしたり、仕事のことを考えたり、つみたてNISAをはじめたり、ともだちと楽しい話が上手にできたり、SNSで人と交流したり、ちゃんと推しているものがあったり、誰かに目に見えて肯定されていたり、パートナーと旅行の計画をたてたり、車を買ったり運転したり、おいしいごはんを食べたり、夜に眠ったりしているのを感じる。

わたしだけ、いつもなにごとにもふわふわしていて、目的地になかなか向かうことができない、ような気がしている。

 

 

 

 

大学生のときに就活で東京にいて、卒論のための史資料を見に、国会図書館に行ったときのことを思い出す。

国立国会図書館は、基本的にカバンの持ち込みが禁止だったので、荷物をロッカーにしまう。透明なビニールバックに必要なものだけをいれて、中に入る。

卒論に必要な資料以外もいろいろ見ていて、いろいろな本を読み、史資料もコピーをとったり、書き写したり、卒論を進めたり。さあかえろうとおもった時に、母から借りた定期付きのICカードがカバンのどこにもないことに気が付く。しかも、オートチャージでかなりの金額が入ったものだった。

ロッカーの中もない、そもそも透明のカバンにいれた覚えもない。どこをさがしてもない。国立国会図書館の落とし物にもなかった。

あるはずのものが全くみつからないことに、身体が一気に熱くなる。何をどうしたらいいか、わからなくなり、ひとつの物事に一個一個意識を向けていかないと、わたしはなにもできないのにそれが全くどこから手を付ければいいのかわからなくなり、過去の自分を追いかけることもできなくなるくらいになにをしたかもわからなくなり、余裕がなくなってパニックになる。外に出る、よくわからず永田町の駅と図書館の間を走ったり、歩いたりする。気が付くと鼻血がでてきて、白いTシャツが汚れる、涙も出てきて、貧血になり、その場に座り込んだ。

 

なぜ、ここまで、ICカードをなくしたくらいで、落ち込み、自分を苦しめてしまうのだろうか。きっと自分がずっと悪者になりたくないと思っているからなんだろうと思う。

わたしは、わたしのことが怖くなり、母に電話してICカードをなくしてしまったかもしれないと伝えて、いつもだったら怒るだろうところをわたしがあまりにも異常な状態であることを察しで、「大丈夫だから、いったんカードは止められるし、返金もできるから、家に帰ってきなさい。」と言われた。

 

半年後くらいに、そのときにつかっていたカバンのちいさなポケットをたまたま開けたときにICカードが入っているのに気が付いた。

わたしは、昔からこういうことが、とても多い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、みず、です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

STUTSKMCの「Rock The Bells」という曲がもともと好きだったが、武道館で聞いたときに号泣してしまった。

もちろん、その曲をきけたということが感動につながったのだとはおもうが、KMCのパフォーマンスがかっこよすぎて、あまりにヒップホップだったので、勝手に涙がでてきた。

ヒップホップは好きだが、当たり前だがすべてが好きなわけではない。そもそも音源よりもフリーフタイルの、即興で出てくる言葉やその場限りの思いがすきだったが、STUTSと出会ってからは、親しみやすく死ぬほどかっこいいビートで、いろんなヒップホップの音源を知ることができて楽しい。

KMCはわたしと全然違う人間だが、熱く自分自身の言葉を叫んでいる。そしてラップがちゃんと言葉で、メッセージである要素が強かった。しかもそれに共感できなければ、その歌詞ってほんとに聞いていてしんどくなったりしてしまうが、「Rock The Bells」は、ひとりで、聞いているとき、まっすぐなメッセージが胸にどうしても響いた。

「言葉は違っても響くライムとフロウ」がある、ヒップホップには。

だからわたしはずっとこれを聞いている、最近の気持ちに沿った曲で、自分を支えてくれている。

 

自分の弱さも含め、言いたいことをはっきり言えるひとってなんてかっこいいんだろうと思う。そうなりたいとずっと思っているが、年をとる度に苦手になってきている。

そして自分を正当化するために、いい曲を、いいと言うのは、どうなんだろうとかよく思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

父と話す。

最近音楽はなにをきいているのか、くるりか?と聞かれる。くるりも聞くけど、ヒップホップと、あとは音楽よりラジオを最近は聞いている、という話をする。

お父さんはナントカさんという世界的に有名な指揮者が今度日本にきて、演奏会があるから、それにいくんだ、と言っていた。あとは来月に兄のアマチュアオーケストラの定期演奏会を見に行くらしい。

ラジオはなにを聞いているのか、と聞かれニッポン放送を聞いているという話をする。オードリーの話になり、若林ってやつはそういえば国分功一郎の本の帯を書いていたよな、と父が言う。そう、そのひとのラジオを聴いているんだとわたしが言う。『暇と退屈の倫理学』は面白かったよねという話になる。

国分功一郎の他の本は読んだことがあるかと聞かれ、ない、と素直に言う。

能動態でもなく、受動態でもない「中動態」という概念についての本が面白かったという話を聞く。うちに本があったが、兄にあげてしまったらしい。

今度買ってみる、と伝える。

若林は藤沢周とか、村上龍が好きらしいよ、という話になる。

世阿弥最後の花』はめちゃくちゃ面白かったな(これもたしか若林が帯を書いていたような気がする)という話と、スピンで書いている藤沢周の連載を楽しみにしている話を父にする。

ついでに『コインロッカーベイビーズ』の話もする。わたしはずっと、アネモネになりたい。

 

 

 

実家の入り口に飾ってある絵画が変わって、マティスのものになっていた、あの有名な、赤い部屋の絵だ。

前はセザンヌだった。そのまえはシャガールだった。

家の二階の廊下には、ずっとピカソゲルニカのデカい絵が飾ってある。ちいさいころからずっとある。わたしはデカいゲルニカがあるような家で育った女なのだ。

 

パパお月様とって!の絵を飾るのをやめてしまったときは、なんでやめたの!と兄とわたしは残念がった。いまではわたしが引き取り、一人暮らしの家に飾っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つまりわたしはまた生活ができなくなって実家に戻っている。

実家でひとりで横になって、また自分のことを考えている。

見栄をずっと張っているような人間なので、あと何年で死ぬ、それまでに死に方をさがす、とまわりに言いふらしていれば追い込まれてその時がくれば死ねるのではないかと思いはじめる。

 

 

あしたも仕事にいけないかもしれなく、家で泣いているかもしれなく、「これは水です」と自分に言い聞かせていたら一日が終わるかもしれない、のだった。