週刊モモ

週刊とかあまりにも無理だった

静かで寒い夜

 

「ベットの上で、いつもとは逆の向きで寝転ぶのが好きなんだよね」

と言った人がいた。

 

「枕側を足にするってこと?」

 

「そう、行儀が悪いのはわかってるから、そんなにたくさんやることじゃないんだけど、なんか謎の罪悪感というか…でもそれでも寝転んでごろごろするのがなんかいいんだよね」

 

 

 

 

なんでこんなひとの言葉をいまさら思い出すのだろう、と思う。

相変わらず朝を迎える絶望は深く、悲しく、痛い。

凪の海の中で、顔の上半分だけ水面からだしているような、浸かっている身体のだるさ、でも冴えている眼はしっかりと前が見える。

朝になり身体をおこして、一番最初に思うことは、「疲れた」である。

寝付いても3時間で目が覚めてしまう、3時間かぁ、と意識すればするほど3時間きっかりで起きてしまうようになってしまうこの身体は、どういうことなのだろう。

 

2023年の年末あたりから、次の年が来ることが怖かった。

新しい年が来るという区切りがあまりに恐ろしく、時間というものが次々にわたしのなかに流れ込んで、身体と記憶は、その分どんどんよくわからない何かが蓄積していっている感覚だ。

 

戦争や災害、事件、自殺、誹謗中傷、だれがだれに殺されているのかよくわからない世界になってしまった。その世界を何事もないように生きることが、ときどきとても苦しい。そして何事もないような顔をしているひとたちの幸せそうな顔をみるとうらやましくなる自分にも、辟易としている。

 

 

年末に家にいられなくて、上野をふらふらしているときがあった。

あのときを思い出すと自分でもなにをしたかったのか全然わからなく、悲しかった。ちいさく、だれにも気が付かれないような涙がでたまま、上野にいた。

家に帰るために歩くことや、音楽を聞くことや、そういった当たり前のことよりもなによりも、人が駅に向かってただただ歩いていく人をみつめて、何もせず立ちすくむことが一番楽だった。ずっとそこで、わたしはなにもせずに立っていた。どうしたらいいかわからず、どうすることも間違いのような気がしていたのだ。

なかなか帰ることができなかったけど、優しい友達が電話で、「帰っておいで」と言ってくれたので、あと知らない男のひとに話しかけられるのがもう嫌でこわくなり、とぼとぼと家に帰った。

 

 

 

 

 

 

去年あたりから、本を読まないと、電車に乗るのがこわかった。年々東京の電車が苦手になってきている、苦しくなり電車をおりてしまうこともまだある。

わたしの周りは真っ白で何もない空間に無理やりにでもしたくて、わたしの身体に触れるだれかの感覚や感情は、わたしの中に入ってきてほしくなくて、換気のために空いているあの窓の隙間から、外へ常に流れていてほしかった。

わたしの意識は、わたしのからだや、わたしのからだのまわりではなく、自分の掌で包んでいる冊子の、この小さな世界のなかにずっと収まっていたかった。

行きの電車で本を読み終えてしまったときは、会社のビルの本屋で文庫を買わないと帰れなかった時もあった。読みたい本なんて腐るほどあるはずなのに、上手に見つけられなくて友達にお勧めの本を教えてもらうために電話したり、読みたいのかよくわからない本を無駄に買ってしまって本に集中できなかったり、どうしたらいいかよくわからなくなった時もあった。

 

 

 

 

先日、「会話のない読書会」というものに参加してきた。

それぞれが同じ本を持ち寄り、同じ空間で、同じ時間に、その本を読む。

しかし「会話」はしない、というルールだ。読んでも感想などは伝えず、ただただ黙々と、本を読み続ける。

会を主催しているのは、本を読むための空間を作っているfuzkueというお店だ。

fuzkueのことは前から知っていて、行きたいなとは思っていたのだが、「はじめて」はなんとなくふわふわと気が重かった。もちろんfuzkueはそんなに、入るのに勇気がいるお店という面構えでもないのだが。

「会話のない」というところがわたしにとっては惹かれるポイントだった。わたしはどうでもいい会話はすきだが、自分の思ったことをうまくおしゃべりすることが時々いやになってしまうし、自分の好きな本の話ならさらに、見栄とかがでてきてしまう可能性なんかもあるし、とにかく「会話のない」ことでわたしはいろいろ助かるのだった。

 

 

「会話のない読書会」は2016年から始まっているらしく、fuzkueが対象の本を選定していて、その本を読みたいひとが予約してその日に集まるといったスタイルでやっているみたいだった。

過去のラインナップを見ると、ミランダ・ジュライ『最初の悪い男』、劉慈欣『三体』(三体二回やってる!笑 いいな楽しそうだな)、川上未映子『夏物語』、遠野遥『破局』などかなり自分が好きなジャンルというか、自分も読んできた本が多い、気がする。実は去年の『黄色い家』の回に申し込もうかと思ったのだが、ちょうど募集をみたときに、偶々もう既に読み始めてしまっていた状態で、終わりまで三分の一くらいだったので迷ったが結局本を読む手を止めることができず、自分ひとりで読んでしまったということがあり、次はできたら参加したいなあとその時にも思ったのだった。

会話のない読書会 | 本の読める店 fuzkue

 

 

わたしが予約した会は柴崎友香『続きと始まり』。

もともと読んでみたいなと思っていた本だった。いい機会とはこれだろうか、と思い思い切って参加の予約をし、事前にキャッシュレス決済によりネット上での支払いを済ませる。

fuzkueから予約完了のメールが届き、「ではでは、当日のご来店をお待ちしておりますね。」という優しい文が、そこには書いてあった。

 

 

柴崎友香さんのことはもともと好きで、特に以前も岸政彦のことでブログに書いたことがあったが『大阪』を読んでからはもっと好きになった小説家だ。

去年は、文學界で連載されているリレーエッセイ、「私の身体を生きる」という企画に参加していてその文章がとても、素晴らしいと感じていた(20239月号)。

自分の身体のことについてのとらえ方というのは、わたしもとても難しく感じている。身体の感覚や実在とセクシュアリティのつながり、ファッション、身長と体重、生理や妊娠、肉体と精神のつながり、わからなくてただただ嫌だったり怖かったりする、しかし自分とずっと一緒にあって、必要最低限のケアはして、付き合っていかなければならないこの、肉の塊のことを。

 

 

私が「私の身体を生きる」でもっとも書きたいことは、私は私の身体について書きたくないということだ。

 

「身体がなくなってほしい」というのは、今なら、私は「無敵」になりたかったのだと言いかえられる。だから機械になりたかったのだ。

 

 

 

 

しかし柴崎さんは50年生きてきて自分の身体に慣れてきた、ということも書いてあった。

自分の身体の不具合は、身体そのものに起きていることであり、例えば自分の足にあう靴を選ぶことで、自分の身体の違和感も薄れることがある、と。そして靴だけではなく、身体の悩みというものは実に多様であり、カテゴリー分類されるものではない。自分自身の身体の悩みこそが自分の身体として在るもので、自分の身体を認識するものなのだ、と言っている。

数年前から柴崎さんは老眼をはじめとして、これが老化かー、と実感するようなことが身体に起こり始めたことで、”興味深い”という感覚をもたらしたらしい。機械ではなく、生物であるから、身体は衰えるのだ。その感覚で生きるということが、実にいいなと、わたしは深く感じ、今日まで何回もこのエッセイを読み直している。

 

 

私は自分の身体について、五〇年生きていても「わからない」と言ってもいいんじゃないか、と思った。

死ぬまで「クエスチョニング」であり続けてもいい。

「女性」の身体で、「女性」として生活するのに深刻な困難はなく、理由を求めらることもない立場であることも知りつつ。

今日も明日も、ねじではなかったこの身体で、ねじではないから痛いし簡単に部品を取り替えられないこの身体で、生きているのだと思う。

 

 

 

 

 

そういえばわたしは、昨日から、頭と足の向きを逆にして、寝てみている。

この身体との付き合い方を模索していて、案外誰かの言葉やその記憶が、わたしを助けるものになるのかもしれない。そのひとは、そんなことを言ったとは覚えていないのだろうけど。

わたしもそうやって、知らないうちの誰かに影響を(できればいい影響を)与えて生きていけてたら、いいなというか、おもしろいなと思うのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事終わりの金曜日の夜に西荻窪へ行く。

駅から10分ほど、まっすぐ歩いたところにfuzkueはあった。19時過ぎに着いた。

名前を告げ、好きな席に座ってくださいと言われる。すでに3人ほどが各々の席に着席していた。全部が埋まると、10人ちょっとくらいは座れるのだろうか。cozyな空間だ。

カウンターの席は目線の先に沿って本棚がならんでいた。柴崎友香の『公園へ行かないか?火曜日に』が表紙をこちらに向けておいてある場所があった。せっかくだからこの席にしようと思って座る。

読書会の説明の紙があり、一通り目を通す。お腹がものすごくすいてきたのでごはんが食べたいと思い、店員さんのところへこそこそと行き、「すみません…ごはん食べられますか…」と小声で尋ねるとメニューを渡してくれた。後で気が付いたけど、座って待ってたらメニューそのうちくれたのかもだから待ってたらよかったのかもしれないし、別に最低限の会話はしてもよかったからこそこそする必要も小声である必要もなかったという…。

店員さんが白湯を持ってきてくれた。つめたい水ではなく、白湯。うれしい。

メニューにあるチーズとはちみつのトーストを頼み、ついでに携帯を預かってくれるらしいとHPかなにかで見た気がしたので携帯も預かってもらうことにした。この震えたり音が鳴ったりする機器は、ときどきわたしにとってものすごく邪魔なのだ。

それにしても、このメニュー表(お店の案内書きも兼ねていて、ZINEみたいな、ちょっとした冊子になっている)がとてもとてもよくて、これ欲しいな…と思っていたら、最後の方の頁にこのメニュー表も販売していると書いてあった。運命的だ!と思ったので買おうと思ったが、今月はもうあまりお金の余裕がなくて次来た時にしようと思った。つまりその時点で、よし、また絶対来ようと思えた場所であったのだ。

 

ひともだいたい集まり、1930になったのでお店のひとが読書会はじまりのアナウンスをする。みんなが本を開き、指で頁をさする心地よい音が聞こえてきた。周りを見渡さなくても、みんなが、同じ本を読んでいるのがわかる、その安心感がとても心地よかった。

事前に支払っている金額には、ドリンク二杯分が含まれていたので、メニューを見つめる。コーヒーも、レモネードも、ハートランドも良いなと思って迷いつつ、外が寒かったのであったまりたいという気持ちがあり、ジンジャーミルクを頼む。

これがとてもとてもおいしくて、温かくて、甘くて、しょうがの香りが柔らかくて帰り際に思わず、店員さんに「…ジンジャーミルクがめちゃくちゃおいしかったです、、」と言ってしまった。

 

 

『続きと始まり』は、別々の場所で生活をしている3人の日常を、2020年3月から2022年ころまでの時間軸に沿って書き連ねている作品だった。

背景にあるのは、阪神淡路大震災や、東日本大震災の記憶、そしてコロナ渦の現状。

被災者ではないひとたちの、過去に対する静かな後悔や、現在に対するざわめいた気持ち。

 

 

こうして、何かが起きて、画面も見続けるのは自分がこれまで生きてきた中で何度目だろう。

地震があり、事件があり、テロがあり、戦争があり、そのたびにこうしてひたすら画面をみる。

二〇一一年の震災のときからは、流れてくる報道の映像だけでなく、インターネットで情報を探すことも増えた。

しかし、それで何かが変わったことはない。

自分はいつも見ているだけだった。画面越しに、遠く離れた安全な部屋の中で、「情報」を見ているだけ、時間が過ぎていくだけだ。

 

 

 

悲しみとは、忘れたいものでもあり、忘れるべきでないものでもあり、忘れていってしまうものでも、あるのだと思う。

年始に能登の震災があったから、地震に対しての警戒や悲しみが、ある程度近いところにあるけれど(それでももちろん被災者の方々のことを考えると、きっと綺麗ごとであるのかもしれない、と思う)、そうでないときにこの本を読んだら、自分はどう感じたのだろうか。

いまの感情もこうやって書き連ねたり、または誰かの詩や物語を読むことによって、まだ、浮かび上がってきている。だから、言葉は必要なのだろう。人との話をきいたり、ニュースを見続けたり、新聞をよんだりすることも、そうだ。

浮かび上がった自分の感情と向き合ってみても、やっぱり何もできないことを考えるし、それが肯定されたり赦されているわけではないような気がするけど、それでも生活は続くから、向き合っていく必要があるのだと、わたしは思う。

でも何もできない、と開き直ることも私はできないし、言えないとも思う。

普段はあまり更新しないSNSで募金をしたと周りに伝えたり、そうでなくてもわたしに募金をしたよと伝えたり話してくれた友人たちのことをわたしは、やっぱり、誇りにちゃんと思っている。いつもは素直に認められない自分のことも、大きな幅でなくてもときどきはちいさくても認めたい、と思う。

 

きれいごとばかりしか言えない自分の無力さや、飛び交う意見や、何が正しいのかわからない情報を、のみこんで、意図せずに人を傷つけないように、大きな悲しみの存在を確かめるように、「何もできない」ことを何度も、考える。

 

 

 

 

始まりはすべて

続きにすぎない

そして出来事の書はいつも

途中のページが開けられている

——『一目惚れ』ヴィスワヴァ・シンボルスカ

 

 

この物語の終わりは、終わりではなく、続きの、始まりだ。

わたしたちの日常に続く、始まり。

登場人物たちとの共感は、全く途切れたところにあるわけではない、と思う。

世界はきっと、別々の紙がところどころ重なって積み上げられたものではなく、一枚の大きな紙が、複雑に折り重なっているようなものであったりするのだろう。

わたしはこの物語を読み手として俯瞰してみているのではなく、この本の中の世界で、この本の中のひとの隣で、見ているような気がした。

 

 

 

 

21:30(読書会終了時刻の30分前)くらいに、二杯目の飲み物、温かい紅茶を頼んだ。

ティーポットと、ゆのみの形の小さなコップ、ティーポットにすぽっとかぶせる布地の保温カバーもついてきた。

紅茶はそのコップで3杯おかわりできるくらいたっぷりだった。帽子みたいなかたちのかわいい保温カバーを眺めて、あたたかさを喉から流しいれる。

 

 

時間はあっという間に(ほんとうにあっという間だった!)過ぎて22時ころに店員さんから終了の挨拶がある。2230になったら閉店だったので、みんなが各々のタイミングで、ゆっくりと店を出ていった。

わたしはなんだか、帰りがたくて、本棚の本を手に取って眺めてみたり、まわりの人の様子をうかがってみたりして、閉店間際くらいに、お店をでた。

 

中合わせで、反対側に座っていた男性は、付箋をつけながら本をよんでいたが、どういうところに付箋をつけていたのだろうか、なんて想像しながらまた、駅までの寒い道を、歩いた。

 

 

贅沢でおちついた空間、本を読んで生きていたい人の肯定の空間だった。

ずっといることによる気まずさみたいなものがないところもいい。

ここで本を読むことは、わたしの周りは無理やり真っ白になった背景ではなく、それぞれのひとが、自分の世界の中で読書を楽しんでいる世界で、その中にわたしが座っていた。この世界の中心ははっきりとわたしではなく、本の中の人物だった。だから「わたし」を忘れられた。「わたし」に触れたり、関わったりする人間のことも、ここでは一旦忘れられた気がした。そして、さみしくなく、温かい飲み物がたっぷりあった。

 

読書だけではなく誰かにとっての願いをかなえられる優しい空間が他にも日常に、生活の中に、あの街やこの街のどこかに、ひっそりと存在していればいいのになと思う。わたしだけではない、誰かにとっての。

そしてあなたがそこへ向かうことのできる環境が、この世の中に当たり前にあることを、願いたい。

 

 

残念ながら西荻窪店は1月いっぱいで一旦休業してしまったらしい。

ありがたいことにほかの店舗がある下北沢も初台も自分の家からのアクセスが良いので、また行って、本を読んで、そのあとの気持ちをこうやってまた、綴ってみたりしたいものだ。

去年はなんとなく数えてみたけど60冊くらいは本を読んだっぽかった(いつも文芸誌のカウントの方法がわからないなあと思う)。ものすごい読書家というほどではないが、わたしはやっぱり今年も本を読み続けたいなと思う、電車の中のようなネガティブな動機ではなくても。

だってやっぱり、だれかの物語を感じることが、わたしはすきだから。