週刊モモ

週刊とかあまりにも無理だった

煌めきの

 

 

好きなものの話をたくさんしたいけど、口から音を出して人に説明するのが苦手だ。苦手というか、なんか自分の思った通りに話せないから後悔してしまう。

自分の考えより先行して言葉が出てきて、それはとても薄くて、その場限りの言葉が多くて、無駄な嘘とかもついてしまう気がする。

あとは嘘じゃないのに嘘っぽく見えてしまう、こともある。友だちが自分の感想と全く同じことを言ってて、そうだよね!わかる!わたしもほんとにそう思ってた!といっても、だんだんと自分の気持ちではないような錯覚になってしまう。なんでなんだろう?

しかも相手にも、わたしがほんとうにそう思っていたということは、全然伝わってないんだろうなとおもうし、むしろ疑っているんじゃないか?とさえ思ってしまう。

 

 

わたしはしゃべると、あとからこれも言えばよかったあれも言えばよかったと後悔ばっかりで、何とも言えない気持ちになることは多い。

人と話すのが億劫な時がたくさんある。いまもそうだ。もうなんていうか最近は誰にも会いたくない。でも悲しくて寂しい。やっぱり誰かと会いたくて話したいけど、できない。そんな不安定な気持ちでまいにち生きている。

 

このあいだ、自分の本が人に貸してて全然返ってこないのが急激に悲しくなってひとりで泣いてしまった。いやオイオイ、だいたいお前が読んでほしい、と言っておしつけてんだろう、しかもいままでそんな返ってこなくても全然いいよとか言って貸してたじゃねえかよ。情緒がおかしくなった結果だ。何人かに、本返してほしいといきなりラインした。ごめんね。

とにかく人との話し方、かかわりかたが分からなくなってるが、好きなことの話だけはさせてほしい。

 

 

 

 

 

 

いまは、ひとと話したりするよりも、ひとりで向き合って、考えて、文章を書く方が、なんだか息ができる気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ルイス・ノーダンの『オール女子フットボールチーム』がもうもうそれは抜群にすきだという話をこの間たまたま友人に話した。上手に昇華はできなかったので文章に書いてみようと思う。

 

 

 

英文学には正直なじみがない方だと思う。日本の文学ばかり手に取ってしまう。

みんなが知っているような有名なものなら高校生のときとかに読んだことはある。「ライ麦畑でつかまえて」とか「アルジャーノンに花束を」とか。

失われた時を求めて」は途中までしか読んでいない(いやでも実家に化粧箱入りのやつが全巻あるのでいつか読みたい、何しろ長い)。パールバックの「大地」は大学の授業で読んだ。

もっと幼いころは児童文学はよく読んでいた。「長くつ下のピッピ」シリーズとか、ミヒャエルエンデとか、「ナルニア国物語」も。ケストナーの「飛ぶ教室」も大好きだった。ぱっと思いつくものはその程度だろう。

 

 

 

大きくなってからは、わたしを海外文学に誘ってくれるのはいつも柴田元幸岸本佐知子か、村上春樹だった。あんまりわからなかったから、翻訳者で選んでみるというきっかけが多かったのだが、正直そのなかでも岸本佐知子が翻訳したものばかり読んでいる。

 

 

岸本佐知子さんを好きになったのは、高校生のときで『気になる部分』『ねにもつタイプ』という彼女本人のエッセイを初めて読んだときだった。

あ、わたしこんな人になりたい。と思った。そのときから今もずっと思っている。

 

発想が、考えていることがこのひとはとてつもなく面白くて、そして時々いみがわからない。すごい。楽しい、好きだ!この人の文章!といった感じでわたしはキラキラした気持ちになった。

 

 

去年?おととし?くらいにAマッソ加納のエッセイ(『イルカも泳ぐわい。』)を読んだときに、言い得て妙だなと思った岸本佐知子さんへの表現があったのをすごく印象に覚えている。

 

 

 

 

駅前にぺろんと伸びている、閑静な住宅街にありがちな頼りない商店街を歩いていたら、学校帰りの中学生の女の子二人が忍者ごっこをしていた。

 

 

とにかく二人は、夢中だった。一人がお決まりのニンニンポーズで、電柱柱から電柱柱までをふざけた走り方で横切る。

それを見ているもう一人が締まりのない顔でゲヘゲヘと爆笑しながら「くらえ手裏剣~!」と左手に乗せた右手を高速でスライドさせていた。

 

どっちも忍者なんや、内部抗争かな、伊賀VS甲賀かな、と私はこみ上げるニヤけを抑えきれなかったが、それと同時に、一刻もその場から離れたくなって、歩みを速めた。その忍者ごっこの終わりを見ることに耐えられないからだ。私は知っている、その最強の忍者ごっとに必ず終わりは来る。そして五年後、かつて忍者になるために突き立てていた指にネイルが光る。

 

ーーそんな折、岸本佐知子さんの著書に出会った。

おった!まだ忍者ごっこしてるやつおった!

 

 

 

私は「何言うてんねん」が大好きだ。受け手が腹を抱えて笑いながら「何言うてんねん」と言うしかないものに出会ったとき、安い言葉だけど、人生って楽しいなぁと思う。それは文章でも映像でも、実生活でも変わらない。岸本さんの文章を読んで何度「何言うてんねんこの人」と肩を揺らしたことか。

 

 

 

 

わかる、わかるぞ加納。

岸本佐知子はニンニンしてるよなあ!ずっと!

 

 

 

 

岸本さんは自分の好きな文章しか翻訳しないんだろうなと思っていた(実際に本人もそう言っていた)し、それはもちろん「なに言うてんねん」的なものもあれば、素敵な美しい空想の世界に連れて行ってくれるものが多かった。

ずっと忍者ごっこをしている、というのは、現実生活で、空想の美しさ面白さ楽しさを大人になってもずっと疑っていない、ということだと私は思う。

「なに言うてんねん」もつまりは、「んなわきゃねえだろ」的なふわふわしたことを、真面目に言っているような、そんな感じの「なに言うてんねん」なんだ。と、思う。

 

 

 

彼女の文章は、エッセイも、翻訳も、現実と空想の境目を忘れさせる。

空想であることがはっきりとわかっていても、スポイトで液体をたらしたみたいに現実のエッセンスが混ざりこんでいる。

それがとてつもなく、心地よく、でもときどき気持ち悪く、でもくすっと笑ってしまって、時々晴れやかな気持ちになることを、わたしは随分よく知っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

柴田元幸編集の「MONKEY」はめちゃくちゃに大好きな文芸誌だ。海外文学が手軽に楽しく、たくさん読めるから。知らない世界をたくさん見せてくれるから好きだ。

 

 

 

 

 

Vol.23 2021春号 特集ここにいいものがある。に「オール女子フットボールチーム」は載っている。もちろん、岸本佐知子さん翻訳。

 

 

 

コテコテの南部の出身(らしい)のアメリカ人が描いた1986年の文章。

男子の恰好をしてフットボールの試合をする同じ学校の女の子をみて、女性の美しさに気が付いた主人公が、その試合でチアリーダーの恰好(つまり女装)をすることになって…。

最初はチアリーダーの恰好をすることをとても嫌で嫌でしょうがないんだけど、途中で魔法がかかったように自分の美しさに気が付いて、こころからキラキラとしたチアリーダーになる、という話。

 

 

最初はほとんどアメフトの恰好をするクラスの女の子を偶像崇拝のような、もはや神格化していて、女の子たちの友情に嫉妬をしていた男の子の話なのに、そのあとに女装をした自分がとても美しくてしょうがないとほとんど興奮のような感情が次々と表現されていて、読んでいて明るくて本当にすがすがしい。

 

 

 

悲しいようなきがするけど、男性が女装をすることは、一般的に罰ゲームとか、気持ち悪いことだとか思われてしまうのがリアリティなきがしてしまう。

遠野遥の『改良』を読んだとき、主人公はただただ美しくなりたくて女装していたのに、心も身体もひどい暴力をうけて、わたしは読んでいてつらかったが、まるであり得てしまうことだろうと考えてしまったことを思い出した。悲しいけど、それがリアルなんだなあと思う。

 

 

 

でも「オール女子フットボールチーム」は男性でも、女性でもそして心がどうでも、身体や見た目がどうでも、自分を美しいと感じた瞬間というのはなによりも素晴らしいものなんだ!!という気持ちを、反論の余地もないほどさわやかに、明るい光で訴えてくるところがすきだ。だって、自分の美しさに気が付いたとき、主人公は「僕は愛の意味を知った」とおもうんだよ。

 

 

 

 

主人公と、お父さんのかかわりも好きだ。

「お父さんはすごく男っぽい男だった。父を一言で言い表すなら”男っぽい”それに尽きた。」といわれているお父さんは、”女のいない結婚式〈ウーマンレス・ウェディング〉”が大好きで、年に一度のこのイベントでいろんな女性の恰好をしていた。

 

しぶしぶチアリーダをやろうとしていた息子に、女装について指導したのはお父さんだった。毛の剃り方を教えて、ブラのホックの留め方を教え、メイクを教えた。

 

彼が素晴らしいチアリーダーになったとき、父にとっての”女のいない結婚式”の意味がわかって、そしてこころのそこから父を誇りに思うようになる描写も好きだ。

 

 

 

…世界中にこう宣言したかった。このひとが僕の父さんなんだ、このひとがいなければ僕の人生はなにも意味がないんだ、

 

 

 

 

 

ジェンダーレスなのが素晴らしい、という表現よりも、女性という存在も、男性という存在も、女装をした男も、そしてその逆も、全部素晴らしいんだ!と言ってくれているようなきがする。文のなかでは、こんなにも性別を行き来しているのに、でも曖昧になっていない。そこには男という性別と、女という性別がたしかにある。

性自認が女性であるわたしにとっても、もうなんだか全部希望じゃん!という文章な気がする。きれいごとかもしれないけど、この文章をよんでいるときは何の疑いもないような気持になる、これも幻想に近い文章なのはわかっている。けど読むたびに元気になって、うれしくなる。

そんな物語だ。

 

 

 

 

 

 

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ほかにも岸本さん関連の好きな本をただただすきだよと言っていくよ。

 

 

 

ニコルソンベイカー『中二階』

岸本佐知子翻訳で初めて手にした英文学。

はいはい岸本さん、あなたの好きな文章なんですね、これが…とパンチを喰らった作品。読んだ時の衝撃はすごい。あまりにも「なに言うてんねん」文学である。

とある中二階にあるオフィスで働いている男性が、昼休みに外に出て、またオフィスに帰ってくるまでに考えたことが、派生に派生してごちゃごちゃの頭の中身をまるっきり見せられたようにかいてある。

1秒を3分にして書いているような文だ。たのしいよ、てかおかしいよ、へんだよ。

 

 

 

 

 

ルシアベルリン『掃除婦のための手引書』

「ルシアベルリンの小説は帯電している」

 

人間らしさが怖く感じても目が離せないような文章で、どんどん追いかけて行きたくなる。

追いかけてる対象はほんの中の登場人物じゃなくて、ルシアベルリン本人なんだ、と気がつく。

本当に色んな気持ちになる、人生って色んな気持ちになることだよなあ、色んな気持ちになる体験をすることだよなあ。

こんなに日本語で読んでもユーモアと悲しさを伴う言葉たちを、地の文でよめないことを悔しく思うくらいの文章だと思う。

「どうかしている」、と「さあ土曜日だ」を何回も読んでしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ショーン・タン『内なる町からきた話』

岸本佐知子きっかけでショーン・タンが大大大好きになって、絵本は何冊か買ったけど、なかでもこれが一番大好き。でもこれは絵本というか、短い短編の文章に素敵な絵が挿してあるというかんじ。

犬の章は、一冊の絵本にもなったのでわたしはそれを去年、犬を飼ってる友達全員(といっても三人)に勝手にプレゼントした(てかおしつけた)。

わたしが一番好きなのは最後の人間の章かなあ。結局、結局ね…。でも全部好きだよ。

 

 

 

 

 

 

 

岸本佐知子『死ぬまでに生きたい海』

岸本佐知子のエッセイ、MONKEYでずっと連載してたやつをまとめて一冊にしたもの。

鬼がつくほどの出不精らしい、岸本さんがいろんなところで見聞きしたところ、感じたことを書いている。

他のエッセイと比べると「何言うてんねん」をうすーくスライスしたものが時々本の合間に挟まってるような感じだけど、岸本さんの、彼女だけの気持ちや思い出が書かれていて、わたしはこの本が本当に好き。この連載を読むためにMONKEYを買ってるみたいな気持ちの時もある。

まだ連載は続いているので、2巻目もきっと出るだろう。たのしみ。てか全然出不精じゃない。

 

 

 

 

 

 

 

MONKEY vol.3 2014/秋号 特集 こわい絵本

はじめてわたしが買ったMONKEY、という思い入れもあるがこの号がはちゃめちゃに好きだ。好きすぎて布団の中に招き入れて添い寝したこともある。

ちなみに岸本佐知子の「死ぬまでに生きたい海」はバリ島。

穂村弘柴田元幸「怖い絵本はよい絵本」(その通りだ。)

そして村上春樹の「オリジナリティーについて」の文章がすごく、いい。初めて読んだ時に心がかなり煌めいた文章だ。読んでいると、何かを生み出そうと言う気持ちになって、勇気が出てくる。

 

みんなは村上春樹の著作で好きなものは何?わたしはもうここ数年はどう考えても風の歌を聴けになってしまった。学生の時はダンスダンスダンスの方が好きだった。

短編だと4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて、が結局好きだ(これは本当に好き)し、世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドアフターダークも、好きだ。今はこう言ってるだけで多分時が過ぎたらあれも好きだったこれも好きだったとなるだろう、私にとって村上春樹ってそんな感じ。新刊は、発売日に本屋で本の前で130秒くらい買うか悩んだけどまだ買ってない、いつか買うから落ち着いたらでいいかーと思ってまだ買ってない。よみます。

 

 

 

 

 

 

ついでに最近の好きな(好きだった)ものも話させて

 

 

 

 

 

あのちゃんのオールナイトニッポン

ゆら帝のオープニングで始まるの大好き。

あのちゃんのラジオを聞いていると、中高時代にあのちゃんと邦楽ロック界を駆け抜け、学校の休み時間ではMUSICAロキノンを開いて音楽の話をし、お小遣いやバイト代をためて一緒にライブに行った思い出がよみがえってくる。(いやあのちゃんは多分そんなかんじの学生ではないのかもしれないけど…)

マヂラブのANNでの村上の選曲と同じ気持ち(わたしは多分村上とも同級生だった)。

 

世界には、きみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。

その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め。」

 

というニーチェの名言をあのちゃんが言ったすぐ後に春風のイントロが流れたときの美しさ、一生忘れないと思う。

 

 

 

 

 

このあいだの霜降りのオールナイトニッポン

ちなみにわたしはあっちゃんアンチではない。せいやファンなだけ。

 

RGTwitterでのアンサー

わたしはあっちゃんアンチではない。RGファンなだけ…。

 

THE SECOND

(ちなみに)はちゃめちゃよくて、全部よかった。

 

 

 

 

 

 

あちこちオードリー ダイアン回

みんなで韓国旅行行ってよ!!おねがい!!

わたしは有ジェネで、ダイアンがラップバトルしてたの見てからダイアンのこと好きになったんですが、有田も、オードリーもわたしの好きなひとたちなので、その人たちと絡んで一生わたしを笑わせていてほしいという気持ちがかなりある。お願い…定期的に絡んでてほしい…。

 

 

 

 

 

 

 

怪物

公開初日にみた。前情報何もなくて見た。予告編も見なかったし、インタビューとかもあえて読まなかった。

マイクロアグレッションとか、当事者に寄り添ってないとか、こういう映画はそういう話がどうしてもでてきて、そういう人の意見を目にするとまたいろいろ私はかんがえるんだろうなとは思う。意見をシャットアウトしたいわけではない。

違和感はもちろんゼロではない。けどそれを塗り替えるくらい、見た直後はすごくいい映画だとこころから思ったし、映画を見てるとき退屈する瞬間は少しもなかったよ。伝えたいこともちゃんとあったとわたしは思う。

 

誰かにしか手に入らない幸せなんて、幸せとは言えない。

 

 

 

 

 

 

 

 

AKIRA Layouts&Key Frames1,2 (OTOMO THE COMPLETE WORKS)

値段高すぎる、ひいひい言いながら買っている。先月二冊目を買った。発売が延期になるほど大友さんがこだわっているご様子。

でも手描きのアニメのレイアウトがこんなに細かく見れるなんて、うれしい。眺めているだけでいい。ほんとにきれい、買ってよかった。

 

 

 

くりぃむナンタラ 上田ファン王決定戦

書くの忘れたから今急いで書いてる。くりぃむのANNのハガキ職人四番バッター(とわたしが勝手に思ってる)の復刻版つばめさんが作問した上田のエピソードクイズ、面白すぎてずっと笑ってたしわたしもわりと正解できた。キングコングバンディと猪木のボディスラムマッチみたいになってっけどよ…という衝撃のたとえツッコミ思い出した。上田のエピソードで有田が爆笑してるのを見てるだけでいいみたいなところあんだよな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いったんおわり。

 

 

 

すきなものあつめていかないと、生きていけないよ…。

来週はスピッツの映画とリトルマーメイドを見る予定だし、リトルマーメイドはディズニーで一番好きな映画なので、字幕2、吹替1の3回最低みたいと思っている(ほんと?そんな元気ある??無理だ…もうぐちゃぐちゃだよ。なんか焦っているだけなのかもしれない。躁鬱やめてくれよ。)

 

いつも好きなものの数ばかり数えている、それって、うれしいのかかなしいのかわからない。眠くなってきた。でもこのあとはオードリーのオールナイトニッポン。すきな音を聞きながら、今日も寝ようかなあ。