週刊モモ

週刊とかあまりにも無理だった

カネコアヤノと寝ると死と

 

先週の水曜日にカネコアヤノのライブにいった。

カネコアヤノのライブを見るのは結構久しぶりで、18:00に退勤して特に急ぎもせず、なんとなくzeepダイバーシティに行った。あのライブハウスは、結構遠い。なんだかんだ誰がどこからどのように行っても遠いんじゃないかと思う(そんなわけない、わたし自身の生活圏から遠いというだけだ、自分の物差しでしかものごとを考えられないとはこういうことである)。

ダイバーシティの中のフードコートを通り抜けて、ライブハウスのほうへ歩く。もう開演5分前くらいだった。横を走る男性が通り過ぎて、ああこのひともきっとライブ見にきたひとなんだろうなと思った。

わたしは、走ることができなかった。

 

 

スタンディングのライブハウスで、特に整理番号が前のほうであったとしても、わたしはひとりでいくときはだいたいうしろのほうで、ドアの近くで、なんとなくかべにもたれかかれそうなところにいる。前のほうに行く元気もあまりないし、四方向全員人間であることは少しつらい。音がきこえれば後ろでいい、目をつぶったっていいし、音楽に合わせて身体をゆらしても、ゆらさなくてもいい。観客の一部になるのではなく、ライブハウスの壁の一部になるくらいの存在感でいたい。ありがと~!!とか、○○(名前)~!!とかももちろん叫べない(しかし去年STUTSの武道館ではじめて感情が高ぶり、退場しようとするCOSAに「COSA!行くな!!!」と言ってしまったけど思い返すとかなり恥ずかしい、多分もう二度としないのだろう)。

 

開演1分前くらい慎重にゆっくりとライブハウスに入る。そういえばグッズの、トートバックを買いたいなとおもっていたけれど、売切れたりしてたらどうしようかな、と思っていたら、空気が変わり、照明が暗くなった。そこからずっと、音楽、音楽、音楽。ずっと音楽が強く響いていて、わたしの前には人がたくさんいたので舞台の上が見えたり、見えなかったりしていた。ただそれだけだった。しかしそれだけでよかった。ライブハウスの右側の壁には、ライトに照らされたカネコアヤノの影がうごいていて、おおきくてかっこよかった。曲の合間にだれかが「最高だよ!」みたいなことをいったときに、ちいさな声でカネコアヤノが「ありがとう」って言っていた瞬間はふと、舞台上の彼女が見えた、ような気がした。覚えているような、覚えていないような風景。そのときは見えた、と思ったけど自分の記憶はどんどん曖昧になって、消えて、忘れて、どこかに行ってしまう。かたちにするために、思い出をこうやって文字に表したり、誰かに話して言葉にするのに、その瞬間に輪郭があいまいになる、それは美しくて嘘みたいな現象にのみきっと起こることなんじゃないかなと思う。嘘みたいなことを、かたちにすると、ほんとうに嘘っぽくなってしまう。

 

 

ライブが終わって、Xを開くと、セトリがものすごく良くてこの曲はなんちゃらかんちゃら、ドラムとベースが変わったので新しいサウンドでなんちゃらかんちゃら、ライブアレンジがなんちゃらかんちゃら。わたしも何かツイートしようと思ったけど、上手に言葉にできなくて、また携帯を閉じる。

電車にのって、家にかえる。りんかい線の車内では、座席の前に誰かが吐いちゃったあとがあって、みんな見えているけど見えていないふりをして、その部分を避けて座ったり立ったりしている。わたしも、そのひとたちの一部になる。リュックから本を出して、開く。山内マリコの『マリリン・トールド・ミー』を読んでいた(おもしろかった、だれかを思いやるときに、学ぶという手段をとることが素晴らしいと思った)。電車を降りる前に本にスピンを丁寧に挟む、また別の電車に乗り継ぎ、本を開く、また電車をおりる。ぼやぼやしながら最寄り駅についた、やっぱり遠い。水曜だし、また明日も仕事かあ。つーか先週は急に高熱でたり、でも仕事休めるような状況じゃなくて出勤したけど死にそうになったり、月曜は用事があって札幌に行ったり、仕事は量は少ないかもしれないけど、地味に頼まれていることの種類が多い感じなので面倒で忙しい、気がする。なんだか疲れているので最近の記憶も薄い。

そしてライブの感想は「すごくよかった」としか言えなくて、「すごくよかった行ってよかったこのまま寝ちゃいたい」みたいなツイートと、「カネコアヤノは名前にネコが入っていてうらやましい」というような類のツイートをして、ポケットに携帯をいれる。でも、みんながいいねをしてくれて、きりふきで噴射したみたいにわたしのさみしさは少しだけ、粒子になって外に発射される。ふわっと空気になじんで、わたしのものではなくなっていく。しかしそれにしても、△△なライブだったから、○○だった、みたいな客観的な言葉が何も出てこない。ただただ、ああ~なんかすごいよかったな、と思いながら家までとぼとぼと歩く。そういえば仕事終わりに行ったのでごはん食べていないし、明日仕事なら帰って風呂にはいんなきゃなと思うけど、わたしはずっとこのまま寝ちゃいたい、はやく寝たい、と思いながら家に帰った。「すごいよかった」のあとに続く言葉は「寝たい」なんだ、と気が付いた。

 

 

 

文學界で「わたしの身体をいきる」というテーマのリレーエッセイが連載していたときに、良いテーマだなこれ単行本化必ずしてほしいなと思っていたら先月末に単行本化されたので、買った、火曜日に買って、金曜日に読み終わった。文芸誌のときは別にすべてを追っていたわけではないので、改めて全員のエッセイを読む。

共感したり、共感しなかったり、共感できないけど自分の中に残しておきたいと思ったりした。物理的な身体そのもののことだけでなく、性や自慰行為についての語りも多い。身体の悩みはそれぞれであるので、全員に共感できないのは当たり前で、でもきっと誰かの一部には、共感できる、それが身体に関して語るということなのだろう。

まえにブログで紹介した柴崎友香に加えて、鈴木涼美「汚してみたくて仕方なかった」、朝吹真理子「てんでばらばら」が特に良いなと思ったけど、一番最後に載っていた児玉雨子の「私の三分の一なる軛」が印象に残っている。

 

 

…睡眠は意識を手放すことから始まる。意識を手放すことは、ちょっとした死だ。「永眠」という言葉があるように、睡眠は死と相性のいい欲求なのだろう。先日、睡眠しない生物はいない、といった内容の記事を読んだのだが、つまり、生物は毎日ちょっと死んでおかないと生きられない、といい感じに解釈してもいいのではないだろうか。

 

 

現実をみたくないとき、とにかく自分の中の嫌な感情も忘れてしまいたいときに、「もう早く寝てしまったほうがいい」みたいなことになるのは、だれにとっても多いと思う。意識を手放すことは、楽だ。現実にあるよくわからない責任感や罪悪感をすべて、寝ている時間はないものにできる。

病院に行き薬を処方してもらったことで、毎日安心して眠られるという状況になると、児玉さんは希死念慮が薄くなったそうだ。んと!そうなんだ、わたしはちょっとびっくりした、自分にはない視点だった。冷静に考えればそうなのかもしれないけど、寝てないと疲れたり健康的な影響もあるから死んじゃいたい、みたいな考えとは、これはまた同じな様でいて別の話だと思う。眠れないと、一日にちゃんと一定の時間死ぬことができていないということだから、起きている時間に死にたくなっちゃうのかな。たしかにいまよりもっと眠れなかった時期は、本当に死にたくて死にたくてしょうがなかった自分の経験も思い出す(最近は思い出すのも苦しいけれど)。

 

わたしがカネコアヤノのライブのあと、このまま寝ちゃいたいと思ったのは、この記憶のまま、自分を保存して、もうこれ以上なにかに自分を揺さぶられたり、自分で自分を苦しめることがないように、ぱたっと意識を失いたいと思ったんだろうと勝手に納得してしまった。それはいわゆる、死にたいという気持ちに近いと思う。

 

 

生きていることになかなか喜びは見いだせなくて、生きる意味なんてないはずなのに、生きる意味みたいなものを持っていそうに見えるひと、というか別に死にたいという感情がほんとうに少しも、みじんもなさそうなひとを見ると聞いてしまう。「なんで生きたいと思うのか」ということを。

これは聞き方がわるくて相手の気を悪くしてしまったとしたら、とても申し訳ないし暴力的な言葉になりうるとおもうのだが、本当に純粋に興味がある。死にたいという気持ちが微塵もないひとの景色はどのように光っているのだろうか。わたしには見えない。

だいたい、多くのひとが言うこととしては、「楽しいことやうれしいことがあるから」みたいな答えが多い。生きていれば嫌なこともあるけど、いいこともある。おいしいものを食べたり、好きな人と心を通わせたり、旅行にいってきれいな景色をみたり温泉にはいったりできる。そして、それでまた頑張ろうと思えるみたいなことを言っている人もいた。

と、こうやってひとまとめにしてしまうことはどうかと思うけれど、それぞれの言葉で、それぞれのひとの気持ちを聞いているつもりなので、その人の感情がそれだけではない、ということももちろんわかってはいる。

そういえばわたしはおいしいごはんを食べたあとや、温泉にはいったあとでも、もうなんか全部終わっちゃいたいな、と思うことが多い。これからもこういうことをもっと経験していきたいというよりも、もう満足したからこの気持ちのままで終わりでもかまいませんよ、というか終わってもらったほうがありがたいですよ、みたいな気持ちになる。さあ、これからも楽しくておいしくてうれしいことにお金を使うために仕事を頑張ろう!みたいな気持ちになったことがあまりない。きっとずるずると恵まれた環境にいるということもあるとは思うけれど、そう考えるとなんだか自分が嫌になってくる。

これからつらいことが起こるのならば、はじめから自分が存在しているのは、とても怖いことだ。ならば、うれしい記憶のまま、急でいいので、終わっちゃってもいいんじゃないかなと思う。

 

 

 

土曜に映画の異国日記を見てきて、朝が槙生ちゃんの家で眠っているシーンをみた。

「死んだように眠る」ということばもあるけれど、その言葉の裏返しのように、だれかが眠っている姿を見ると、わたしは死よりも生を感じてしまった。両親の死を経験しても、でも朝は「生きている」なと思った。

自分にとっての睡眠は死に近いのに、他人の睡眠を客観的にみると、生きているなと感じることは不思議なようで不思議ではない。毎日ちょっとずつ死んで、生きていけばいい。

 

 

 

youtu.be

 

 

感動している 些細なことで

間違ってないよと こちらへおいでと手招き

感動している 君の目の

奥に今日も宇宙がある

 

 

 

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きのう友人にサークルカットを作ってもらって、コミティアに申し込みをしたのだけれど、さっそくしょーもないミスをしてしまい、マジでしょうもないのに一気に自己肯定感が下がり、ボロボロと泣いてしまったが客観的に考えても、マジで意味わかんない(昨日のこともあとでエッセイにしてしまおう…)。そうなのだ、こういうことがすぐに起きてしまうから生きているのが嫌なのだ、だから良いことがあれば早く寝てしまいたいのだ、と思った。