週刊モモ

週刊とかあまりにも無理だった

死ぬ言葉と生きる言葉

 

 

少子化問題とか、同性婚は社会が変わってしまうと首相が言ったこととか、社会の中での人の生き方について考えるニュースが最近多いなと感じる。

ここはわたしの意見を自由に発したい唯一の場所だとおもっているので。不快なきもちになりそうなリア友(これって死語?)のみなさんは読みたくなかったらとばしてくださいね。

 

 

 

(どうでもいいがこの間「新譜」という言葉をさらった使ったときに、あれこれって死語なのかな?と思った。わたしたちが中学生のときはウォークマンipodで音楽をきいてたので、CDの発売日に(もしくは前日に)CDショップでCDで音楽を買うことが当たり前だったが、いまはサブスクで解禁されるからCDとかそういう文化自体が廃れているし、新譜という言葉は現代には合っていない…?とふとどうでもいいことを思った。どうでもいい、という言葉を二回使った。)

 

 

 

 

 

 

 

わたしは時々、女であることはたまらなく嫌になる。

生理がきてお腹が痛い、子孫を残すという気持ちがマジでない、反出生主義のこともわかる気がする、子孫を残すための体ってキモい、でもそれが生き物なのか、種の存続のために我々って生きてんの?男、女というくくり、怖い。子孫を残すことが前提の分け方なきがしてしまう。

 

NHK不定期でやる「植物に学ぶ生存戦略」という妙にくだらなさを含んだ番組が大好きだが、植物もしぶとく生きて子孫を残そうとしてるのだと考えるとちょっとした恐怖を感じる。

 

 

 

 

妊娠するのも怖いし子どもに責任を持つのも怖い、わたしが産むんだよ、いのちを。

自分が生きていて嫌なことってたくさんあって、どうやって生きて行ったらいいかわからないことばかりなのに子どもを導くことなんてできないと思っている。

という話を新婚の男友だちにしたら(そんなこと新婚の人に話すなよ)、一緒に学んでいけばいいんじゃない?とど正論を言われた。わたしは性格が悪く、最悪な人間なので、この人が本当に羨ましいと思ったし、妬ましいと思った。

 

 

 

 

おととし?くらいにラインを消して友達が減った、と思う。

 

自分が一緒にいて楽な人を取捨選択した結果かなとは思うが人と出会っていろんな価値観を教えてもらえる機会は減ったんだろうなとは思う。

それでもやっぱりあまりに違う価値観は疲れてしまう。

というか嫌な気持ちになることもあるのでわたしが勝手に拒否をしたのだ,

わたしは幼いな、と思う。

 

 

大学の友だちは集団になるときつい。もちろん、そのひとたちは何も悪くないのに。

みんな大手企業に勤めて、当たり前のように彼氏彼女がいて、もしくは作る努力をしていて、結婚したいという気持ちがみんな一律にある感じがある。ゴールに向かっている感じが、わたしに劣等感を感じさせる。そもそもわたしはみんなみたいに優秀じゃないしね。

わたしもそういうゴールが幸せなのか?と考えることはよくある。正直そうなれたらほんとにいいなと思う、こともある。から彼氏本当に必要なのか正直わかんないという状態で今の人と付き合ってる(それって最悪か?だれかが自分のことを好きという事実に安心して甘えてしまっている、最悪かも)。でも、それに完全に染まることもできずに、一歩引いて考えてしまう。周りの影響だと思う。自分の意見がぐらぐらしているのがわかる。

完全にそれを否定できない自分もいてもどかしい。自分らしく、自分に自信を持った生き方をしたいのに。とにかくわたしは自分に自信がないし、まわりからの目も気にしてしまう。かっこいい生き方をしている人間だと思われたいのだ。ダサすぎる。

 

そういう恋愛とか、結婚とかの話ばっかなのも、何も話したくなくなるので、わたしは好きな本や映画の話や、最近こんな面白いことがあってさー、という話ができる人とずっと酒を飲んでいたい。いまの話をたくさんしたい。

そういう恋愛や結婚などの将来の話も全く聞きたくないということではないので、話してもらったら聞くけどそればっかになりたくないってだけだ。わたしの我儘ではある。

 

 

 

 

むかしからあんま結婚願望がなかった。というより法律婚への憧れが薄い気がする。誰かと一緒に暮らしていくことの憧れはある。好きな人と一緒にいたい気持ちだけがある。それを叶えるのが一般的には法律婚ということに、ずっと疑いを持ってる。それが本当に1番幸せなのか?と疑ってしまう。

でも事実婚法律婚ではあまりにも恩恵が違いすぎる、めんどくさいから法律婚してしまおう、そっちのほうが楽だから、となりそう。

なんとなく結婚はしたくないけど、色々考えてパートナーと納得した上で結婚できるのが1番いいと思うけどな。

オードリーの若林が結婚して、若林だけはわたしの味方だと昔から思っていたからか(すいません、信者なやつで…)、結婚っていいのかなって思ったこともあった。

去年あちこちオードリーで森三中がでたときに、若林のいまの奥さんが夜に明日のお弁当を詰めていてそれをみて「恋愛っていうより生活だ」と思ったから結婚した、という話がとてもよかった。わたしも誰かと「生活」がしたいよ。って純粋に思ったのは、わたしの中の願望がすこしだけわかった気がしてよかった。

 

 

 

 

でも結婚したとして名字を変えるのもなんか、まあ絶対に嫌とかじゃないけど変えなくていいなら変えたくない、なんで女性が変えなきゃいけないんだろうとは普通に思うな。

でも実際別姓が許可される法制度ができたとして、そこから社会の受け入れ方が変わっていくのはまた時間がかかるんだろうなと思っている。

わたしは仮に結婚したとして、別姓にできるなら別姓にしたいなと思う。自分の今の名前わたしはだいぶ好きだし。

そういう選択肢を当たり前のようにするには当たり前のようにそういう選択をする人がたくさんいたほうがいいと思うから。

力になりたいよ。

 

 

 

親が昔に使っていたのを聞いたことがある言葉、「主人」「家内」という言葉ってじわじわ嫌な言葉だなと思った。

主の人って何?家の内の存在って何?普通にキモいよ。

岸政彦がおさい先生(この呼び方もリスペクトとかわいさがあって好きだ)のことを連れ合い、と表現してるのはいいなと思った。結構そういう人って最近いるよね。

連れあってるんだもん、相互の関係がある。

でもこの表現もいつかはよくない言い方だと言われたりする日がくるんだろうか。

 

 

 

 

 

 

結婚式とかにも憧れが全くと言っていいほどない。そもそも華やかでキラキラした服を着るのが本当に苦手だし、その上人に注目をされるのなんて嫌だし、披露宴で昔の映像とか流されたり、昔のことを回顧しなければならなくなったら最悪だと思う(そんなことあんまない?最近の結婚式事情わかんない)、わたしは自分の過去がトラウマで大嫌いなのに。

ウエディングドレスとかもどちらかというと着たくない。どうせなら自分の好きな服を着たい。かっこいいパンツスーツとか。わたしはそっちの方が好きだ。

 

 

着飾ることはほんとに苦手で成人式はどうしても着物を着たくなかった。が、うちにはおばあちゃんが残してくれた綺麗な着物があって、母親はわたしにそれを着せたがった。わたしは着たくなかった。おばあちゃんや親の気持ちを考えろと怒られた。

そして母親は成人式当日まで髪を伸ばすことを強要した。わたしはそのときはショートにしたくて髪の毛を切りたかったのに。

 

成人式当日に着付けと髪のセットが終わって、美容院ではなるべく化粧を濃くしないでくれと懇願した。髪も派手にしないで、お願いします。ほんとに嫌なんです、と母の目を盗んで美容師に伝えた。でも気がついたけどここは母の行きつけの美容院だった、今思うとホラーだよ。

そもそも美容師と話すのも苦手なのでセットしてもらっている間も本を読んで現実逃避していた、と思う。たしか遠藤周作を読んでいた。わたしは、自分がきれいな格好をしてうまれた感情よりも、本をよんで学んだことを大事にしたい、大事にしたいよ、と思うとなんだか泣けてくるよ、なんでだろう。

 

家に戻って家の前で無理やり写真を撮らされたが、綺麗な着物を着ることも、切ることを諦めさせられた髪も、全部嫌でわたしは家の前で涙目だった。

 

 

親戚に写真を送るのに、なんでそんな顔をするんだとまた怒られた。撮られた写真のわたしの顔は酷かった、だって2秒後には泣いてるだろう、みたいな顔をしてほんとに悲しそうにわたしが写っていた。こんなことをして親は楽しいんだろうか?と思った。母親はわたしをずっと責めた。

でも笑えなかった、ひとつも嬉しそうな顔ができなかった。なんでわたしの成人式なのに嫌なことをしないといけないんだろうと思った。

女だから髪を伸ばして、髪を結いて、着物を着て成人式に出ないといけないの?と思うと価値観を全て押し付けられている気がして嫌だった。とにかく悲しくて、つらかった。

でもその価値観を大事にできない自分にも嫌悪感があった。そのころから特に、わたしはわたしがどう思ってどう行動するのかが正しいのかわからない気がしている。

 

 

 

地元の友だちに会って、久しぶりに会う友だちとかもいて少しだけ元気は出たけどもう全部が嫌になったので同窓会的なものもひとつも出席せずにその日の飛行機で北海道に戻った。北海道にかえって、一人暮らしの自分の家に帰っててわたしは安心してまた泣いたのを覚えている

 

 

 

 

 

結局自分に子どもができたとしても、親からもらった価値観でしか自分は子どもを育てられない、という話を聞いたことがある。残念ながらそうなんだろうなとわたし自身も思う。

いくら反面教師にしていても、わたしは今の両親に良いことも悪いことも教えられた、そのうえでわたしという人間ができているのは間違いない。

わたしみたいなひねくれネガティブ自己肯定感低い人間をわたしが生み出してしまったらどうなるんだろう…と思う。

 

 

わたしらしく生きる、という方法がずっとわからなくて、ずっと時間だけが過ぎていっているかんじがある。

そうして過ぎていった時間を後悔する未来が待っているような気がして怖い、あのとき頑張ってひととかかわっていれば、彼氏をつくっていれば、結婚していれば、子どもを産んでいれば、とか思ってしまったらどうなんだろう。わたしは、わたしが正しいのかずっとわからない。

普通のレールに片足が載っていて、でもただの本当の普通ではいたくない気持ちだけがわたしをもやもやさせる。もうすぐ27歳になる。ずっと自分の過去を後悔し続けていているまま。答えがほしくて、わたしの進むべき道があってほしいと、願っているまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

100分de名著というテレビ番組が割と好きなので、毎回ではないが見ることが多い。

年始に「100分deフェミニズム」という特集をやっていたので録画をしてみた。

東京大学上野千鶴子とか、『海をあげる』の上間陽子らがでていて、フェミニズムについてそれぞれが思う名著をあげて解説する100分の番組だった。(通常は25分の番組が4週にかけて一冊の名著を紹介している。25分×4回で、100分。だから100分で名著。)

 

 

 

女性の権利の歴史とか、男性についてはホモソーシャルとかについてもかなりわかりやすく説明していて、とても興味深くおもしろかった。

男性はこれをみてどう思うんだろう、とものすごく興味があって、感想を聞きたいのだが押しつけがましく思われたらいやだなと思って(こういうところがわたしの悪いところだと思う)、まあ…せめても…と思って父に(父も100分de名著は時々見ているし、上野千鶴子らのことについても知っているから)、年始にやってた100分de名著おもしろかったから見てみて…と言ってみた(まだ見たかどうかわからない)。

 

 

 

体を使って起こることは甘く見ないほうがいい、ということをはっきり言っていたことがかなり印象的だった。

例えば代理出産についても、自分の体を差し出して、それが自分の意思だったらいいんじゃないか?という司会のバービーの質問に対して、「他人の身体を使って自分の自由を実現すると言うことの怯えは捨てられない」と研究者である彼女たちははっきり言っていた。短期間で見れば自由意志だったとしても、長期的にみて、語り直されると身体の関係は違う語り口になるのだ。

 

 

性的同意の難しさについても語っていて、わたしも本当に自分自身でも難しいなと思う経験がある。確実にあるなと思う。わたしですらあるならこの世の中には腐るほどあると思う。それを男性たちはどのくらい知ってるんだろうか?

 

中絶の権利は国際政治の争点。と上野千鶴子ははっきり言った。素晴らしいと思った。

アフターピルの市販化もまだ認可されていない。自分の経験からもどう考えても完全に他人事じゃないとわたしは思う。

 

 

女性たちが性暴力を語るようになった年代に、「わたしはこのような体験があった」という語りに対して、聞いた女性たちが「それはほんとうですか?」という反応をすることなく、それはあったと事実として認めたと言う話をしていたときはテレビを見て思わず泣いてしまった。

痴漢とかわかりやすいものだけでなく、性的にいやな思いをしたことがない女性なんでいないんじゃないの?当たり前だけど。だから、そちらから誘ったのではないか、とか取るに足らないことなのではないか、とかいう意見がでることなく、女性同士で連携ができるのだ。昔も、今も。

 

 

 

 

 

 

セックス ができるかどうか、をその人と付き合うかどうか判断基準にしてる男性に出会ったことは割とある。逆に付き合ってみたけどセックス をする気が起きなかったから別れた、と言う人も見たことがある。もちろんすべてのひとがそういう考えだとは思っていないけど。そういっていた人がいた、という事実だ。

特に男は本能的に子孫を残したいから、そう言う目線で見てしまうのはしょうがない、と言ってる人もいたな。

 

このことに対して、言える言葉は難しいけど、わたしは人と付き合う前に、この人とセックス できるから付き合おうかな、とかあんま思ったことはない。もはやそういうことが全くできない人、でも全然付き合えると思う。得られないものもあるかもしれないが性的なことで嫌な思いを絶対しないもの、と思う。性的同意で悩むことはあるし、これからも嫌な思いをしそうな気もどうしてもしてしまう。わたしのことをただただ抱きしめてくれればいいんだよ。本当にそれでいいなと思う。

セックス する、しないではなく、intimacyが大事、みたいなことを言っていた外国の男性のスピーチを思い出した。男性の「right to sex」についての話だった。

友だちがTwitterリツイートしてて、純粋にその感覚いいな〜と思った。素敵なスピーチだった。

 

 

 

 

だれかと一緒にいたい気持ちが近年生まれてきてるのは、寂しいからだと思う。

でも実家にいるのは嫌だから、わたしの話を聞いてくれて、話を聞かせてくれて、好きなテレビ番組を一緒に見てくれて、面白かった本の話ができて、一緒に散歩をしてくれたり、綺麗な夕日を見てアー綺麗だなーとぼーっとしたり、季節の美味しいものを食べたりしてくれるひとがほしかった。

 

ほんとは同性の友だちと一緒に住みたかった。一緒に住めるなら済んで欲しいと思ってた。セックスのこととか、恋愛のこととか考える必要ねーしな、とかも思ったし。

でも難しくてよくわかんないなと思うこともある、正直に…。わたしはシスジェンダーヘテロセクシャルではある。恋愛感情は男性に抱く、というのは実際そうだ。

 

まあ一緒に住みたいよ、とわたしが誘える同性の相手はみんな人と住むとかそういうの無理だわ…というひとか、彼氏がいてわたしと住むという選択肢は全くない人だった。そもそもそんなことを誘える人自体が少ないけど。

だから彼氏を作るっていうのが1番簡単な方法なのか?とも思う。それってどうなんだろう、とまたもやもやしてわたしは自分の行動に自信がもてなくてよくわからなくなる、という繰り返しだ、最近は。

 

 

 

 

Twitterで、「誰かとお付き合いすると、結婚するか、別れるかの2択しかない」みたいなツイートを見た。

もっとあるだろ、てかあってくれよ、とわたし自身は思う。けど、言いたいこともわかるよ、なんか。

でも同性愛者の人たちはこういう普通(と思われている)ツイートの中にくくられていないと思うとわたしはかなしい。だって結婚するという選択肢が0%だから、じゃあ別れるしかないのか?となる。そんなことはないでしょう。現行の法制度のせいで誰かの幸せがなくなってもいい世のなかであってはいけないよ。

現実的に見ても他の選択肢も実現できるような世の中になって行ってほしい、と思う。

 

 

 

 

 

でも結局わかんない、自分のことばっか考えている自分も、何もできない自分も。そうやってまた時間だけが過ぎていくのを、わたしはなぜか俯瞰でわたしをみているような気もする。どういうことなんだろう。おわり。