週刊モモ

週刊とかあまりにも無理だった

週5で会社に通えない

 

2日連続で会社を休んだ。ずっと休んでいた期間があったのでわたしには有給がない。普通に欠勤した。

朝起きたら始業の時間になっていた。身体がだるすぎて涙が出てきそうになって、息苦しさを感じて、無理だ、行けない。と思った。なんのちからもわかなかった。

会社に電話して、友だちには会社を休んじゃった。とラインを送った。

友だちは午前中から、おいしいパン屋でパンを買ってうちに遊びに来てくれた。わたしが好きだと話したことを覚えていてくれたのか、固いパンを買ってくれた。固いパン、マジで好き。ドイツのパンみたいなやつ。くるみとかドライフルーツがいっぱい入っていてずっしりしたパン。

お父さんがダージリンのアイスティーを入れてくれたので2人で飲んだ。

友だちの家まで移動したりして、午後まで一緒にだらだらして、「ちょっくらかき氷でも食いにいくかァ〜」と三回くらい言ったけど、外が暑すぎて結局ずっと家の中にいた。

 

 

 

 

いろんなことがうまくいかなくて、また寝られなくなって、ご飯が食べられなくなって、普通の生活からちょっと外れた状態になってしまった。あんなにちゃんとご飯を食べすぎるくらい食べていたのに、簡単に食べなくてもいい体になってしまうことが恐ろしく感じる。体重を測らなくても体が不自然に痩せていくのがわかるのが苦しい。

 

誰のせいでもなく、完全にわたしのせいでこうなってしまって、一度そうなるとまた抜け出すのに少し時間がかかってしまう。

毎日寝られるか不安なのだが、睡眠薬を飲むと朝がとにかく辛くて、スッキリと起きられない。から極力飲みたくないと思ってる。

睡眠薬を飲むタイミングを間違えると、朝はずっと寝たままになってしまう。から、今日は寝れない!薬を飲むぞ!とスパッと決めないといけなくて、寝れるかなあどうだろうと思ってずるずる12時になる、1時になる、2時になる、今から飲んだら明日の朝起きられない、となってしまうとそれはもうおわりを意味するのだった。

 

 

飯も食えない。のはなんでなのかよくわかんない。

睡眠に関しては寝たいのに寝られないのだが、ごはんに関しては食べたいとならない。固形物をのどにいれて、食道に入れて、胃に入れるのが億劫だ。別に食べなくてもいい。むしろ食べたくない。飲み物だけで生きていけるならそれでいい。

でも、ご飯を食べないと力が出なくて、朝駅まで自転車を漕ぐ気力が湧かなくて、日の光を浴びる気も起きなくなってしまう。

食べないといけない、と思えば思うほど食べられないから難しい。

 

わたしは会社勤めがろくにできない、と思ってて、自分は欠陥がある人間だなあと思う。

誰しも悩むこととかあるのに、わたしは生活に支障をきたしてしまうので、会社に行けなくなる。わたしをよく知る人はわたしがほとんど寝坊をしない人だと知ってると思うけど、そんなわたしが寝坊をしてしまうのは身体のメカニズムがどうにかおかしくなってしまっていることを認めざるを得ない。

なんかもっといい生き方あるのかなあと思うけど、お金がないと生きていけないし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしのこころと身体は、なんて難しいんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おいしいごはんが食べられますように」を読んだ。Twitterでいろんな人がこの本を誉めていて、読みたいなと思っていたら芥川賞の候補作になったのでやっぱり読まないとなと思って買いに行った。うちのお父さんはなんとなく、これが芥川賞を受賞するんじゃなかろうかと思っているらしい。N/Aもかなり良かったが、あれは若い人向けかなあ。蹴りたい背中を読んだ時と同じ感じがした。どっちも好きな作品だが。

今年は芥川賞(できれば直木賞もだけど直木賞は長編だからむずいかなあ、、、)候補作を、発表前に全部読んでしまいたいと思う。わたしは新しい本が読みたいと思っているこの気持ちを、無駄にしないようにしたい。それでも家で積読になってる昔の本たちに気まぐれで手をつけるかもしれないが。

 

 

 

 

「おいしいごはんが食べられますように」は、素敵なタイトルから思い浮かぶような、おいしいごはんとほっこりするようなその他の人間関係を書いた本ではない。

これはまさに純文学で、なんていうか、おいしいごはんが食べられなくてもべつにいいような物語だった。

 

 

主人公の二谷は、職場でそつなく仕事をこなして、そこそこうまくやっていて、お腹が空くからご飯を食べるひとで、食べるものはなんだってよくて、カップ麺で十分で、なるべく体にいいものを食べるとか、そういうことを考えたくないような人で、

 

芦川さんは、無理をしない人で、すこしの理由があれば会社を早退したり、休んだりするし、会社の中ではか弱い、みんなが守りたくなるような存在で、料理が上手で、きちんとしたものを食べて、よりきちんと生きるのが好きで、

 

押尾は芦川さんが会社を休んだ時、代わりに仕事を任せられるような存在で、器用貧乏で、真面目でがんばりやで、体育会系で、みんなで食べるものってだいたいまずく感じるって言うし、おいしいってことを人と共有するのが苦手なひとだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

みんなのごはんの価値観があって、自分の中のごはんの価値観をみっつに分けたような登場人物たちだった。いまの状態は二谷に近いかも、でもよりよく生きたいという気持ちとかお菓子作りが好きなのは芦川さんに近いかも、ひとりで好きな食べ物を食べるのが楽なのは押尾に近いかも。

 

誰の気持ちもわかるような気がしたし、芦川さんに嫌悪を抱く押尾の気持ちもめちゃくちゃわかったのに、芦川さんのように仕事を休んでしまったなあと思ったりもした。

本を読んでいた時は芦川さんにイラッとして、押尾の味方でいたいと思っていたが、わたしも芦川さん側の人間であるのかもしれない。まあ、芦川さんも悪い人じゃないけど。

 

 

わたしはいま、おいしいごはんが食べられるような状態じゃないけど、友だちとなら食が進むってこともあって、仲のいい友だちが一緒にご飯を食べてくれることがある。とてもありがたいなあと思うし、これからも一緒にご飯を食べて欲しいと思う。

それでも、押尾が言った言葉がわたしの中で深く、強く残ってしまっていることは、意味があることだ。

 

 

 

「わたしたちは助け合う能力をなくしていってると思うんですよね。昔、多分持っていたものを、手放していっている。その方が生きやすいから。成長として。

誰かと食べるごはんより、1人で食べるごはんがおいしいのも、そのひとつで。力強く生きていくために、みんなで食べるごはんが美味しいって感じる能力は、必要じゃない気がして」

 

 

 

 

1人で生きるのってめちゃくちゃ生きやすい、とは思う。でも1人でごはんを食べてる時のリラックスさで、人ともごはんを食べられたらもっと良いと思う。押尾にとっての二谷みたいに。でもそんな人ってなかなかいない。

ごはんって生きていくために必要なものだから、その価値観って大事にしないといけなくて、ごはんの価値観が合う人も同じように大事にしないといけないと思う。

わたしは1人でいたいと思う時と、1人がほんとうに怖いときがあるけど、ごはんに関してもそうだなあ。

 

 

 

 

 

わたしもわたし自身がおいしいごはんが食べられますように、と願っている。

そうしたら今よりもうちょっとうまく生きられるかもしれない。