週刊モモ

週刊とかあまりにも無理だった

私が信じるものは

 

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日本は宗教国家ではないけれど、「祈る」という行為は案外不自然ではない。

私たちは神様にいつも祈っている。

神様が具体的にどの神様か、ということを意識しているの人のほうが少なくて、

正月は当たり前のようにお寺や神社にお参りにいくし、

各地方のパワースポットにいったら、その土地のゆかりの神?に祈るわけだし、

はたまた全然関係ないけどキリスト今日のイベントであるクリスマスを恋人と過ごす一大イベントにして、へらへらケーキを食っているわけだ。

否定はしない、うまいケーキは食わざるを得ない。クリスマスはわたしたちは何かに祈っているのだろうか?

 

私が宗教を意識したのは、斉藤孝先生の「声に出して読みたい日本語」を読みながら般若信教を暗記したとき…ではなく(マジで小学生の時ドはまりしていた)、園子温の「愛のむきだし」を観たときであるし、遠藤周作の「沈黙」を読んだときかなあと思う。要するにキリスト教に関心を持ったのだった。

 

さいころ、奈良のおばあちゃんの家にいったときはついたらまず、ひいおじいちゃんの遺影に挨拶をして、般若信教をよんでいたので、ものすごく当たり前で、それが仏教という”宗教”であることにすら気が付いていなかった。

 

なんとなく、”宗教”と聞くと自分の身近なものではない、という感覚のほうがすごいおおきかった。

そのなかで、キリスト教を意識したのが上記2つの作品だった。

 

しかもそれらをみたわりと直後に、親戚のお葬式にいったのだが、その亡くなったかたがカトリックの方だった。

遺影は真ん中ではなく、左側にあって、真ん中は神様の位置だから…というような理由だった。ものすごく印象にのこったことを覚えている。

お葬式は悲しく、故人とのお別れの場である、という意識が仏教では強いけれど、キリスト教では神の元に近づける、祝福すべきものとしてとらえられていた。

 

だから、とにかくたくさん歌を歌った。

歌詞カードが一人ひとり配られていた。神の元へお送りするための祝福の歌だった。

 

中学高校そこらの私は、歌うのがちょっとはずかしくて、かなり小さい控え目な声で歌っていたら、となりの親戚のじいさんに全然歌ってなかったねと、葬式後に若干馬鹿にされたようにいわれたのをめっちゃ覚えている。うっせえ。

 

ただ、なんかお葬式なのに、よかった、

なにかを信じるということは、死ぬときの気持ちも変わるのか。

 

 

何かを信じるということは、どうやら私にとってたやすいことではない、ということをここ数年感じている。

 

日本人がそうやって、特定の宗教にのみ祈りを捧げないのはなんでか、というのは色々話があると思うけど、私が一番しっくりきた話は

believe in something」ではなく、

respect for something」だからだ、という話。

TEDで昔坊さんが話してた。うーんなるほど、と思った。(私は単純で、バカなので)

 

respect」って割と和製英語的に使われると思うんだけど、○○さんマジリスペクトっす…みたいな…。

そういう意味よりも尊重とか、敬意を払うって意味では、その対象のものを価値のあるものだと認めて大切にしたり、傷つけられないように守ったりする、という意味がここでは強いかな。と思う。パワースポットとか、まさにそうなのかな。

 

 

believe」はもっと頼りにする、救いを求めるという要素が含まれているような気がしている。「respect」との隔たりは意外と広い。

 

 

 

西加奈子の「サラバ!」という小説がめちゃくちゃ大好きで、人に貸してたのが、また最近手元に戻ってきたのでまた読み直した。

この本のテーマは「自分が信じることを他人に決めさせてはいけない」ところが大きいと思う。

私はそのテーマをダイレクトに受け止めてしまって、私にとっての信じるもの、生きていく上での”軸”とはなんなんだろうか、といつも強く強く考えている。

 

何かを信じることで、自分の行動が決まる、のだけれど 

現在の日本ではまさに何を信じて、自分はどのような行動をとるべきかということを常に問いかけられている気がする。

 

私たちが信じるべき指針というものは、一貫してはなくて

人に流されてしまうこともあるし、時には信じていた情報が誤っていたりするし、

かといって文句ばかりも言えなくて、苦しかったりする。

 

私は、結構自分の意見を、このような場ではっきり伝えるのはトラウマがあるのだが、

それも結局人からの視線や意見を気にしてしまっているわけで。

そもそも他人すらも上手に信じられていないのだ。

 

私はとてもとても弱い人間で、ダサい人間なので、だれかに大変好かれることはないのでは、、、ともちろん思っているし、疑ってしまうし、その分死ぬほど苦しんで泣いてしまったりする愚かでかなり後ろ向きな性格だ。自分が本当に嫌いだ。

 

人のことは好きだし、好かれたいし、何かを人に与えたい、助けてあげたいという気持ちと、

結局何もできない、できたことがないという気持ちが、

分離すればいいもの、自分で入念に混ぜてしまっているのでまたも厄介だ。

 

 

もはや宗教を信じている人がうらやましい、と数年前から思っている。

端的に私の欲求を伝えるとするならば、「お祈りしたい」のである。

世間的に認められていない宗教でも、もはや陰謀論でも、信じて自分の軸があるだけ

私よりも何倍もすごいのかもしれないと思う。(個人の見解ですマジで。)

ただ、そういったことを信じていない人を無理やり引きずり込んだり、迷惑をかけることには絶対反対だが。

 

 

サラバ!」にはかなり助けられた。

私にはまだ、心から信じられるものはないが、

自分で自分の信じるものを決めたいし、それによって自分の行動を決めたい。

主人公の圷歩(今橋歩)はかなり後になって、本当に大切なことに気が付いたわけだが、私は圷歩ではないし、この世界に左足から登場したわけでもない。

私は、大切なものを見過ごさないように、生きていける(はず)なのだ。